我が半世紀の人生(エピソード自分史-ロングバージョン)

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  1. 1 立て続けに起きた内定取消し2005年
    1. 1の1 C社内定取り消し
    2. 1の2 転職の情報収集について
    3. 1の3 アキラメと同時にオファーがありました
    4. 1の4 Y社職場飲み会で立上がった途端の解雇通知
  2. 2 人生っていったい・・・私の思想・信念
  3. 3 退職・生き方など人生2008年
    1. 3の1 人生の歯車が狂う時
    2. 3の2 人間万事塞翁が馬・退職から半年たって
  4. 4 仕事で感じた感謝と人恋しさ
  5. 5 2013年4月28日スマホデビュー
  6. 6 交通違反や事故のトラブル頻繁するのは何かのメッセージ?!
    1. 6の1 高速道路でスピード違反
    2. 6の2 二年目は一般道をスピード違反
    3. 6の3 三年目は駐車禁止
    4. 6の4 信号無視で捕まりました
    5. 6の5 まさかの現場事故で労災が起きました。
    6. 6の6 車両の接触事故
    7. 6の7 更なる怪我人の発生
    8. 6の8 私の今回のトラブルの意味の解釈
    9. 7 建設業の施工管理時代の想い出
    10. 7の1 電気土木工事の施工管理・工事アルバム
    11. 7の2 太陽光発電設備の管理
    12. 7の3 新しい職種に向けて
  7. 8 猛烈な痛みの結石が再発して完治まで(2018年8月)
    1. 8の1 初の通院経験
    2. 8の2 1ヶ月後の通院
    3. 8の3 手術前検査
    4. 8の4 手術前~手術後
    5. 8の5 大部屋の四人部屋で他の患者さんをウオッチング
    6. 8の6 医師と介護士の姿勢から私が学んだこと
    7. 8の7 医療費の限度額認定証ってご存知ですか?
    8. 8の8 退院時の注意
    9. 8の9 12月13日(木)に尿管内の残置チューブの除去と術後診断
  8. 9 福祉アルバイトを振り返って
  9. 10 偶然が重なり白内障が判明するまで(2020年1月)
    1. 10の1 白内障の可能性が分かるまで
    2. 10の2 白内障の検査結果
    3. 10の3 うっかりミスに気付いて
    4. 10の4 白内障手術~コンタクトデビュー
  10. 11 2020年人生で三度訪れた仕事のピンチを抜けて
  11. 12 「あなたが初心者だろうが未経験者だろうが、したいことがあれば3年あればなんでもできる」の記事を見て
  12. 13 好きを仕事をしても苦手なことはありる、そんな時は!
  13. 14 「豊かさって何だろう?!」について再考しました。
    1. 14の1 自分が心地よいと感じること
    2. 14の2 自分にとっての特別な時間・場所・もの
    3. 14の3 これから「ゆたかさ」「幸せ」の基準になっていくと思うもの、こと
  14. 15 この世に生まれた意味・使命はあるのか?それが無ければ楽に思えた
  15. 16 人生で起きた度重なるトラブルの意味は?!
    1. 16の1 人生初の1年毎の3連発のトラブル
    2. 16の2 人生2回目の重大トラブル三連発
    3. 16の3 人生3度目の頻発する交通事故
    4. 16の4 これらの意味は
  16. 17 転々と職を変わった人生にも意味はあった
  17. 18 走馬灯の如く人生を振り返って
    1. 18の1 社会人で初めて地元から離れたこと
    2. 18の2 我孫子でろう者と出会ったこと
    3. 18の3 20代半ば授産施設職員になったこと
    4. 18の4 30歳中頃に職種を変えました
    5. 18の5 官公庁の施工管理で泣きながら社に戻った
    6. 18の6 日本セラピスト支援協会と出会って
    7. 18の7 セントレアで2度のセラピーイベントに参加
    8. 18の8 虹の和リリアンとの出会いと別れ
    9. 18の9 大阪でのセラピー三昧と退職場面のリフレイン
    10. 18の10 死を見つめる事は生を見つめる事
  18. 19 自分が本当にやりたい事を問われる時期・時代かもしれません。
  19. 20 障がい者福祉に関わるきっかけと想い出
  20. 21 スピリチュアル観点から観た我が人生
  21. 22 手術入院まで4ヶ月の経過(2020年12月)
  22. 23 自分は何処で何をしたいかの答えは見えないけど
  23. 24 親族を亡くして故人を想うこと
  24. 25 それは月曜日に始まり日曜日に終わった
    1. 25の1 人を呪うことの怖さ
    2. 25の2 母親の怨念から許されて
    3. 25の3 重度障害者の優しい気持ち
    4. 25の4 色々あった56歳
    5. 25の5 捨てる神あれば拾う神あり
  25. 26 障害者支援から高齢者介護に軸足が移った訳は?!
    1. 26の1 2015年1月から仕事で障害者と関わる
    2. 26の2 2020年1月児童デイサービス
    3. 26の3 空白の2020年11月
    4. 26の4 2020年12月高齢者施設の勤務
    5. 26の5 2021年4月障害者支援・高齢者施設の勤務
    6. 26の6 2021年11月「高齢者施設の勤務」再スタート
  26. 27 やっぱり障害者支援がしたい!
    1. 27の1 2022年11月「重度訪問介護」スタート
  27. 28 これまでを仕事振り返って
    1. 28の1 通信(電話)技術者時代
    2. 28の2 施工管理業務
    3. 28の3 介護職(障がい者・高齢者)
    4. 28の4 まとめ

1 立て続けに起きた内定取消し2005年

1の1 C社内定取り消し

2005年1月に内定したC社より呼ばれて訪問すると給与面で折り合わないので採用が困難になった趣旨の話しがありました。昨年の給与打ち合わせの時は問題なしで辞表を提出後で多いに戸惑いました。

ハローワークではなぜか背後に神様の慈愛を強く感じました。
今後の事は分からない中でどん底に落ちて人の暖かさに感謝の気持ちを感じました。
「神のアイが深ければ深いほどどん底まで落とされる・・・」そんな事を感じました。

面接で今までの転職歴及び仕事についての姿勢についての甘えを厳しく言われて気かせて頂いた事に感謝です。その苦しさを乗り越えてこそ新の幸せが訪れると指導頂きました。

1の2 転職の情報収集について

1.就職、転職雑誌
コンビニに行くと多くの種類があり、何種類か購入しましたが条件に合うものがなく費用も掛かるので断念しました。

2.web (インターネット) 
探してみると三、四種類見つかり登録してみました。web上の適正検査、転職に関する疑問解消、経歴書記載・面接のノウハウ及び希望する企業からのスカウトメールが届いたりして、現職を持ちながらの活動にいいです。また取り掛かりにはメールでのやり取りで進められるメリットがあります。

3.ハローワーク(職業安定所) 
私はとても暗いイメージがあり最後になりましたが、結果的にここで新しい仕事が見つかりました。行ってみると思ったより明るく係りの方から適切なアドバイスが頂けて心づよかったです。名古屋には「名古屋人材銀行」というキャリア向けの公共機関もあります。

最後は「面接」という生身の人間とのやりとりになるため、ここでのアドバイスは大変役に立ちました、職員の皆さん有難うございました。

1の3 アキラメと同時にオファーがありました

内定取り消しは仕方ないか、相手を恨むまいと思っていると、インターネット登録していたリクルートから「面接」の話しがありました。
いいムードで面接が終わりましたが、後日まさかに不採用の連絡があり、暗黒世界い迷い込んだ気持ちでした。

1の4 Y社職場飲み会で立上がった途端の解雇通知

2005年4月職場の飲み会
その後に自宅近くの会社が見つかり懇親会の2、(3)次会で名古屋の錦・池田近辺のフィリピンパブに行きました。

フィリピンパブについて基本的には巷のスナックやバーと同じかと思いますが「フィリピンパブ」は「楽天的な思考、人との付き合いの中で”相手を思いやる気持ちが非常に強い」お国柄のため日本人女性だけの店とはムードが違います。如何わしい店のイメージを持たれる方もいるかと思いますが、健全な店です。

解雇通知
「社風と会わないの今月一杯で解雇する」の話しがありました。粘りましたが「確定」でしたので従う事にしました。フト想い浮かんだ面接時の顧問(コンサル)の先生にお礼の電話を入れました。 昼からお会いして今回の問題転と改めるべきことを御指導頂きました。どんな時にも「感謝」と「お詫び(反省)」が大切かと思いました。

会社へいった際に気付いた事
会社へ荷物引き取りと挨拶に行った際になぜ今回の会社へ入りたいと思ったのかを気付きました。自分を研くため素晴らしい場を頂いたと思います。 そしてその業が終わったと感じました。改めて「感謝」と「お詫び」の大切さを再度認識いたしました。

明日から再出発について
途方に暮れてバスに乗っている時にふと以前お世話になった方を思い出して状況報告したのがきっかけで再入社出来る事になりました。これも日々お世話になった方への「感謝」を忘れず、日ごろ「誠心誠意」つくした事への答えかと感じました。これからは今回の出来事を胸に「狎れる」事なく「平穏無事な毎日に感謝」が出来る自分で居続けたいと思います。

2 人生っていったい・・・私の思想・信念

目が見えない事、音が聞こえない事、文章・絵・音楽が上手い事は「人間の価値には一切関係ない」と考えています。

個性の違いと考えます。私は盲ろう者のガイドヘルパーをしていましたが、盲・聾だけのガイドヘルパーもいます、講演では健常者が一次通訳を行い盲ろう者の障がいの種別に盲・聾者が通訳している場面もあります。

健常者が偉いのでしょうか?違います。耳が聞こえ、目が見える「個性」を持っているだけです。聾者の中では手話が使えなければ、ある意味で障害者です。しかし彼らは親切に接して頂きました。

ホームレスの支援も数回させて頂きました、けっして「施す」のではなく、今は配給のお手伝いが出来るのでそうしただけです。
明日は受ける側にいるかも知れません、それはそれで良いと思います。一部のホームレスさんの気持ちのほんの一端ですが理解出来ました。

障害をもっている方は環境がそうさせたのか「優しい」方が多いです。盲ろう者ガイドヘルパーの時に「○○・時刻表のサイトがピンデスプレイの未対応に改悪」されて腹が立ったので○○にメールを入れましたが改善を気はないと返事が来ました。

当事者に「再度ホームページの改修要求を出そうか」と言いいましたが「もういいですよ」と言われて涙が出ました。
個人でも出来るホームページの改修は「見栄えのため」にこだわり「少数派の意見」が反映されない背景に「社会的弱者」に対する差別的考えがあるのではないでしょうか?

健常者を基準にした社会は歪んだ社会だと思います。車内で女子中学(高生)が奇声を上げても特別視されませんが障がい者が声を上げると変わった目で見られるのはなぜでしょうか?

背景には障がいを持った人は施設等に閉じ込められて周りに居ない事が原因の一端ではないかと思います。更に言えば「障がい=恥」と間違った考えが根底にあるのではないでしょうか?

社会の矛盾に気づいた人は何らかの声(アクション)を上げていく事が重要かと思います。
中には独断で差別的な考えも持っている人も居ると思いますが、敢えて「声を上げて思い違いを当事者と充分に話し合い、時には喧嘩も必要かと思います」誰かが始めなければ何も始まらないと思います。

私は「障がい者差別」は口や態度には出さなくも心で思っていても「差別は差別」に思います。

夢や理想では飯は食えない事は分かっていますが当事者と会い「障がい」があるために受ける不便さ「障がい者」だから仕方がない、そんな諦めに似た納得をする事が一人でも減るようにブログなどを通して社会にまた自分に問い掛ければと思っています。

一代で「障がい者」問題は解決出来ないと思いますが、私の行動が「社会的弱者の気持ちを代弁でき、それに共感する人」が出来ればこれに勝る喜びはありません。

「人は夢や理想がなくては生きていけない、しかし夢や理想だけでは生きていけない」人がこの世に生まれたのは何かを人のために行う使命があるからだと思います。

3 退職・生き方など人生2008年

3の1 人生の歯車が狂う時

2008年9月から長野の担当になって客先も変わりました。その時から何か歯車が狂ったように、する事全てが裏目に出るようになりました。

2008年10月末から私が対応すべき現場をお客様の指示で補助(実際にはお目付け役)にもう一人配置されました。その方のお陰でそれまでの問題点が分かってきました。問題として「人任せ」=仕事に対する熱意の無さが客先に伝わり今日に至ったと思います。

気が付いた時は10月末で9月からの客先不信を挽回するには時間がたち過ぎていました。 しかし、必死ぬ気になって自分の問題点を確認して巻き返しを行いました。

後で知ったのですが、「最近は、とても良く出来ている」の評価でしたがその時は「後がないのでまだまだ」と必死でした。

ある朝に皆さんの期待を裏切るが事を起こしました。 名古屋に戻されて「理由はなんでしょう?」の問いに「自分自身の弱さ」「上司に相談出来ない我の強さ」を多いに反省しました。

1週間~2週間の代休消化の休暇を頂きました。この休みを悲観的に見るか前向きに見るかで今後に対する行動が大きく変わると考えました。心配して声を掛けて頂いた方が数人いましたが人生のどん底で声を掛けてくれる方がかけがいのない人である事を聞いていましたが、まさにその通りでした。

その時は私の社内での処遇は見えていませんが、この時期「リフレッシュ」させて頂ける事「心遣いをされる方の存在」に感謝しています。

今後はどんな場所に行こうとも今回学んだ事は「自分から逃げない」「上司・周囲に声をかける」でした。今回の事を多いに反省して明日からの行動につなげて行きました。

辛くなった時は「不平・不満」ではなく、その場に居れる事に「感謝」をして「自分を飾らず周りに自分をさらけ出す」事で乗り越えて行きました。

その出来事は自分と周囲にとても辛い結果になりましたが、それを無駄にせず仕事や人生に生かす事で反省としたいと思います。

何とか今の仕事でやって行こうと思う矢先の9月始めに転機がありました。 自分の希望とは別に転進=退職勧告の話しが持ち上がりました。

上司公認で次の仕事探しを始めました。まずは名古屋人材銀行(「管理職」や「技術職」、また専門的知識や資格を必要とする「専門職」のみに限定して職業紹介を行う厚生労働省の施設)で登録を行ないました。

その帰り道にあった名古屋駅のハローワークで求人を見ようと思い寄った結果、自分の希望に合った求人がありました。

週明けの7日に名古屋人材銀行に確認した所、名古屋人材銀行とハローワークにはやり取りがない事を知りました。

18時の定時に帰り栄の中日ビルのハローワークは19時まで空いている事を知りました。 複数階に該当する場所があり上の階に行ってみるとそこはすでに終了しており、そこから出てきた方に事情を話すと下の階である事を教えて頂きました。

そこで希望の会社の求人を取り出し所定の手続きを行なった上で、ハローワーク経由で書類選考の申し込み面接まで進みました。

新しい職場は派遣会社で営業の方が私の経歴と合った現場を探す中で正直不安や辛さもありますが、励まされた言葉を紹介します。

「苦しい想いをしてきた人ほど、他人の気持ちを推し量り、他人の痛みを自分の痛みのように感じられる心の柔らかさを持っている。

それは大きな力になり、苦しんでいる人たちに真の愛情を注いだ時、その愛が人の魂を揺さぶり相手の人生に勇気を与えることができる。」

3の2 人間万事塞翁が馬・退職から半年たって

2010年5月26日記事

1年前から仕事環境が大きく変わり、「人間万事塞翁が馬」の故事が浮かびました。

大雑把な意味は「不運に見える事が幸運を招いたり、幸運と思える事が不運のきっかけだったり物事はどう進むか分からない」です。

私流の捉え方として、人知で不運と思える事でも諦めずにそこで学んだ事を生かす事。幸運な時は喜ぶ事は大切ですが有頂天にならずにそこに到るまでの周囲の助けに感謝を忘れないで、不幸と思える事はいずれ過ぎさり幸運が訪れると勝手に解釈しました。

次の出張先は?!

ここまで二たびのどん底から立ち上がった後の2010年7月5日の記事です。

出張で記憶に残っているのは社会人になって初めて熊本に行き通信工事をしたことです。

その後は現場作業から監理業務に職種が変り半年以上の常駐になりました。中津川の付知町で下水処理施設の電気設備工事で民宿に泊まった事、次に三重県の玉城町のアパートに住み込んでの単身赴任を思い出しました。

岡山のレオパレスで泊まって道路にある情報表示板の据え付け工事の管理業務を行いました。

2010年度に入って静岡県沼津の現場調査でビジネスホテルに宿泊して、長野県中野や飯山で交通状況を監視するカメラ取付け工事の下見でビジネスホテル泊まりました。調査後に工事が始まり管理業務を行いました。この応援業務は2010年11月初めに完了して、次は主担当件名か新たな応援件名かで忙しくなりそうです。

経費面から1ヶ所で1週間以上の宿泊はレオパレスでそれ以下ならビジネスホテルの可能性が高いです。社内業務や地元担当の可能性は低くそうでした。

暫くすると事務所のレイアウト変更があるので新しい環境を楽しみたいと思いますが、この後に予想しない三度のピンチが訪れることは知る由もありませんでした。

4 仕事で感じた感謝と人恋しさ

2010月12日10日(金)の奇しくも誕生日に現場への通勤途中の事です。

仕事で名古屋から名阪国道経由で三重県上野まで通っていました。行きの車中ラジオで 「心は見えないが心使いは見える、思いは見えないが思いやりは見える」のフレーズに一人うなずきました。

いつもは一人の食事ですが、その日は現場視察に来た方と食事で複数で食べる事で更に美味しく感じました。

現場から会社に着いて来年1月の作業で来週お客さんと打合せ予定でしたが、手配漏れが見つかりその部品は今から注文しても2月以降になる事を早めに気づかせて頂いた事に感謝しました。対話って大切ですね!時には自分の間違い等に気づかせて頂く良い機会になりました。

対応は週明けに周囲の協力を得て自分の出来る限りの事をする事にしました。
JIN「仁」の「天は乗り越えられない試練は与えない」のフレーズが浮かびました。

対応は自分に職務を念頭に置いた上でお客さんと業者の相手の気持ちを考えた思いやり行動を行うための試練かとピンときました。ピンチは自分自身を向上するためチャンスの機会を生かしたと思いました。

沼津宿泊を通して
出張先の宿泊ホテルを通して自分の変化に気付きました。
2010月12日10日(金)17日(金)~24日(金)はRホテルに、26日(日)~28日(火)はSホテルに宿泊しました。

両ホテルの違いはRホテルは一泊6200円、Sホテルは5500円(日曜日、月曜日の連泊5200円)
一泊当たり700円~1000円違い、宿泊が続けば差は大きくなると思います。

当然安い理由はあります。
違いとして
・Sホテルは鍵、カードはなく部屋に入るのに暗証番号を入力して部屋に入ります。暗証番号を記載したレシートは領収書になっています。
・清算はフロントではなく清算機械で行い、チェックアウト手続きがありません。
・部屋のアイテムは歯磨きのみでヒゲソリは有料です。
・部屋は少し狭く照明数が少なく入った瞬間は薄暗く感じました(慣れれば違和感はありません)
・駐車場、朝食は比較して少なめでした。

人件費を削減することで安価に仕上げたようです。最近歳を取ったせいか(笑)人恋しくなりました。

Sホテルは鍵の受け渡しがなくチェックアウト処理がない分、煩わしがない半面、一抹の淋しいがあります。前は室内の浴槽を使っていましたが最近は共同浴場も良いと思えて使用しています。

11月は親しい方とのすれ違いを通して「通じる」「解り合える」のはなかなか難しいと感じました。人と人の繋がりは相手を思いやり、相手の立場にたち通じているかを確かめる面倒くささがありますが、その手間を通してお互いが解り合えると感じた出張でした。

仕事で思うこと
仕事では、なぜか毎回ステップアップした課題が発生する。現場仕事なのである意味、仕方ない事です。

いつもは問題や課題から逃げて人任せにしましたが良い機会と前向きに考え取り組むと不思議と嫌なものからワクワク感に変わってきた。

根幹には「神様は人には乗り越えられない試練は与えるられない」があったと思います。

人との出会いも「偶然なくして全て必然」を考えれば嫌な人、合わない人でも出会いの理由を考え自分自身は他人に対して嫌なイメージを与えていないか考えて、行っていれば反省して改める。

該当しなければ自分とはタイプが違う可能性があります。 その方を理解することで新たな見方を身につけるチャンスと捉えると気持ちが軽くなるのでアラ不思議!

自分は几帳面なタイプなのでフウテンの寅さん風の方との付き合いは苦手です、そんな方の考えを理解してピンチの時にはやることやり楽天的に生きれば新しい世界が見えてきます。

人生は修行の場とはよく言ったものです、どうせ同じ人生なら前向きに楽天的に生きたほうが得です!

5 2013年4月28日スマホデビュー

4月から新しい職場になり新大阪駅近くの職場近くの宿から滋賀県に通勤しています。
前職の仕事は岡山→姫路(兵庫)→大坂で終わり、今週から大阪→京都→滋賀になりました。

新しい職場では1週間の経費の7万円近くが建て替えが必要になるので、出張期間の2週間で14万円を立替しています。お金が大きく入るためには出すが先で入るために出してかと思いました。

宿泊場所はその日の作業進捗次第で前夜にならないと決まらず、以前は宿泊先を計画的に決めていましたがしっくりいかない状態です。

ガラケーからスマホに更新しました、仕事でナビや携帯カメラのデータを個人スマホで送信するのに必要ですので安価の低速SIMから更新しました。

これまで地図を打ち出していていたルート確認がスマホで出来るようになってストレスが削減されて楽しめる余裕が出ました。
予定外の作業で滋賀県の数十箇所に工事告知のチラシのポスティングになり、いつもは公共機関の利用ですが車の使用になりナビが役立ちました。

社内ルールが確定していないと戸惑っていましたが、考え方によって裁量の範囲が広いメリットを享受しようと前向きに思えるようになってきました。

6 交通違反や事故のトラブル頻繁するのは何かのメッセージ?!

6の1 高速道路でスピード違反

名古屋から仕事で飯田に向かう途中に約束の時間に遅れそうになってスピードを出していたら高速道路で捕まりました。

約束時間ギリギリで客先に書類を持参するため高速を急いでいて、いつもなら制限速度の走行がその日は制限速度を超えて追い越し車線を走っていました。

前方の追い越し車線に制限速度の低速車がいたため走行車線から追い越して、しばらく追い越し車線を走行していると先ほどの車が覆面パトカーで赤色灯をつけて前方に回り車内表示で「後ろにつづけ」「左によれ」の指示がありました。

車内に誘導された。「仕事でスピード違反で免許がなくなるのは困るでしょう。
ゴールドカードなので通行帯違反(追い越し車線の走行)の方で切符をきります」「罰則金を納めて3ヶ月無事故無無違反なら違反点数は0に戻るがゴールド免許は次の更新でグリーンになる」との事でした。

上司に報告をすると「事故ではなかったのでよかった、スピードの出し過ぎの事故を未然に防いでもらったと思えば」と言われました。

今回の件で「今まで仕事の忙しさに追われて自分を忘れ、周りが見えない状況に気づく貴重な体験でした。

以前に知人が運転する車に同乗して一車線の道で前にのろのろ走行の車が居ましたが、その方は「仏様が前にあの車を付ける事で速度を落として事故を防いで下さっている」の言葉が約20年たった今思い出されました。

それから暫くは毎年捕まるようになりました。

新しい派遣会社の派遣先の1年目の岡山では何事もありませんでした。

6の2 二年目は一般道をスピード違反

姫路の現場から客先に向かう途中に、いつも通る道でスピード違反をしました。60km制限から40km制限に変わった区画を50k走行で捕まりました。 

周囲の車両がスピードを落としたので注意して見ると前方にネズミ取りが見えました。自分もスピードを落としましたが、止められて警察官の説明を聞くと40km制限の標識を指差されて気づきました。

捕まっていたのは他府県ナンバーの車両でしたが異変に察知出来ただけに速度制限の変更標識に気づけずにテンションが下がりました。

6の3 三年目は駐車禁止

大阪のレオパレスの契約時に、数分間に路上駐車をして駐車禁止の札を張られました。

停車時に路上駐車の車が少なく嫌な気がしたので、警察官の取り締まりや駐車禁止のステッカーが張られないように注意して打ち合わせしましたが、 車に戻ると店内から見えない左側に駐禁のステッカーが張られていました。

職場の方に話すと近くに警察暑があって地元では取り締まりが厳しいと有名な所らしいです。 社用車で職場から歩いて数分の場所でしたので会社の駐車場に停める事も可能でしたが、契約後に部屋へ荷物を持ち込むのに会社に戻るのを面倒がったためでした。

近くの警察暑に行くと理由が分かりました、警察暑に行くのに反対車線を通るので違反車両が目に付きやすい状況でした。

昔深夜早朝の仕事で団地にある駐車場に入れるのが面倒で路上駐車したら違反ステッカーを張られました。違反ステッカーを貼って現場に行けないで、近くの警察暑に行くと当直の方から同情に似た言葉がありました。

2回の駐車場違反に懲りてその後は駐車場に入れるようにしました、駐車場代は経費処理出来ますが罰則金は自腹で手続きに手間がかかります。

この違反でふと「最近は毎年何かしらの違反で捕まる」事に気づきました。年末には仕事の精神的プレッシャーに耐えられずに派遣先を変わる事になりました。

6の4 信号無視で捕まりました

派遣先最後の現場を終えて、自宅に帰る途中に前のトラックについて交差点に侵入したら赤信号で信号無視で捕まりました。

暫く交通違反が続発したので「次回違反をしたら免停か講習会受講の案内書」が届きますの警告がありましたが、その後は違反なしで過ごしています。

今考えると「異常な回数の違反数があって悪意あり」と受け取られても仕方がない状況でしたが、自分ではその気はなくいつも通りの行動でした。

派遣会社から変わった新しい職場も現場管理の仕事ですが官公庁から民間企業に変わり、派遣から正社員になりました。 初の現場は伊勢で盆明けから土木工事の管理に三週間ほど現場に常駐予定でした。

6の5 まさかの現場事故で労災が起きました。

事故状況は不明で被災者は入院のため詳細も不明でした。施工(工事)部が設置されてからの不名誉な災害発生1号でした。早速上司に報告すると大阪の上司と東京の安全管理部の責任者が駆けつけました。

救急車の出動があって労災と分かると自動的に警察に連絡が入るようなっているので、救急隊の後に刑事さんが事情聴取に来られてましたが、事件性はないと判断されて帰られました。

その後に労働基準監督署に報告を行い、上司及び安全担当者と合同で労働基準監督署の立ち入り検査を受けました。幸い前職の官公庁工事で安全書類に厳しく適正に作成していたので安全書類の不備はなく数点の追加書類の要求があった程度でした。

週末の事故で土日返上で書類作りでした。官公庁工事の事故は労働基準監督署の指導より発注者からの原因究明と対策が厳しく求められます。官公庁は安全関係は厳しく精査された書類を元に施工を進めますので決済が降りた安全書類はある意味ではベストな内容になっています。

事故発生時は安全管理がきっちりした書類の問題点を見つけて改善策を纏めるので至難を極めますので事故を起こされた方は心身共にグッタリしています。同種事故防止のために関連する工事はストップされ安全対策の見直しや是正が入ります。その事を知っている事故を起こした現場監督(現場代理人)は正直他業者に対して申し訳ない思いで一杯です。

今回の不幸中の幸いは他社への波及はなく、被災者が無事退院されて仕事に復活された事です。

6の6 車両の接触事故

現場事故を起こして宿に帰り駐車場に入れる際に車両をぶつけて損傷しました。社内ルールで上司に報告義務があるので暗澹たる気持ちで報告をして事後処理をしました。

ホテル側に報告すると施設には特に問題ないと言われ、警察に連絡を行い現場検証の上で事故証明書を求めました。 

レンタカー店では車両事故は個人請求の契約と言われました。大手から初めての中小企業に入って携帯用電話代も個人払いの噂を聞いていましたので、こんなもんかと思っていました。

その日は上司と安全担当者が同乗されたのでレンタカー店の話しをしました。会社設立時は解らないが今は車両事故の修理代や携帯用電話代の請求はあくまでも会社請求と教えてもらい、レンタカー店に連絡をして上司に交渉して頂きました。

一人だけなら知らずに数万円の修理代を自腹で支払ったかと思うと複雑な気持ちでした。

6の7 更なる怪我人の発生

翌週にまた怪我人が出ましたが真摯な話し合いで穏便に終わりました。そんなこんなで入社1年目の担当現場が終わりました。本来ならば入社後に担当する案件が伸び伸びになり現場担当者が出世して私で三人目になる伊賀現場が翌年にようやく始まる事を知らされました。

年明け後暫くして(スピード違反、駐車場違反、信号無視の)3違反に続き(現場事故、車両事故、怪我)3事故でその後は物理的なトラブルはなくなりました。

会社の業務連絡は全てイントラネットの電子掲示板で通達されていました。会社が急成長した過度期で社内ルールの改定が頻繁にされていた時期でした。

電子掲示板で何故か見落としが頻繁して「社内ルールに従っていない」と厳しく怒られて精神的にプレッシャーになっていました。

事あるごとに上司からは私一人がルール無視をする社員と映っていたらしく厳しく指導を受けていました。

所属する施工(工事)部は大阪の本社にあって上司の課長と多くの部員はそこに居ますが私は名古屋営業所で私ともう一人の新人は研修期間で大阪の主任から指導を受けていました。

状況はみんなが同じと思いますが、毎日顔を見て話せる距離と都度に電話をしないと伝わらない環境では多忙な上司にとってストレスだった気もします。上司からコミュニケーションのために大阪に来てもいいの話しもありました。

私が上司の言動や電話に恐怖心を持つようになって、更に心理的距離が広がったように思っています。
退職を決意して名古屋営業所に戻ると、保守部門と施工(工事)部門の後輩が今月来月で退職すると聞きました。

後輩は大阪の上司の面接で入社、私は現場が多忙で人事の面談で入社なので、後輩は上司に目を掛けられて将来有望な方でしたので退職を思い直すように散々説得されたらしいです。

現場訪問がコストとして見られて、電話や業者指示で対応して経費節減する会社方針に職人気質の彼には合わなかったようです。   

支店内は縦割りで営業(所長)と工事部では職制が異なります。毎月我々の部の社員が辞めていく異常さに気づいた所長が対策に乗り出しました。腹を割った話しが通じた時は遠くの上司よりも毎日顔を合わす職場の対話の大切さを実感しました。

ここで学んのは、経費節減の為にIТ化を進めて本社や各営業所、会議室の状況がモニターに常に写されておりテレビ電話も頻繁に使用していました。私が大好きなテクノロジーの固まりの会社でした。

究極のテクノロジーは人間関係を希薄にするように思えました、確かにテレビ会議で顔形は見れます。

しかし顔と顔を合わせて相手の体温を感じる距離で話すことで得られる体感には勝てないと感じました。毎週画面の顔合わせよりも月1の会議や食事会の方がより親密になると思います。

その後に入社した大手の工事も含めたサービス会社は全て紙ベースで報告書も手書きでした。パソコンも会社にありますが、部署毎に数台でした。メールで書類を送ったり電子掲示板は無いので事有るごとに書類を取りに行ったり、回覧板を見に行ったりとある意味では手間が増えた感じです。

もう1つ学んだ事があります、今までは営業さんとは完全分離で。よく分かりませんでしたが営業さんと同じフロアで営業の喜びや苦労を少しですが共有出来たように思います。

その後の会社では同じ支店の営業さんと同期入社して鬼の研修を一緒に受けて、営業さんの気持ちを知る事ができました。

私は入社2ヶ月後の12月に退職して、その方は翌年の1月に発令された準社員(入社後3ヶ月以内の社員)の退職勧告で退職されました。
太陽光ブームに便乗して数千人規模の大量採用、そして下火になるとと大量解雇をされている会社を最後に介護職に転身しました。

介護の最初の職場は障害を持つ人も持たない人も均一の分配を行うので、給料と呼ばずに分配金と呼び、家族構成や持ち家の有無で加算金が付きます。

障害の有無では分けて区別して居ませんので比率は分かりませんが、働くメンバーは200名を超えたと聞き人が増えれば色々な考え方が出ます。

重度の知的障害等でお金の価値や使い方を知らない方も一緒に住む介助体制に惹かれてました。 類推すると彼らも福祉施設で働く方と同等の収入を得ていると思われます。

生活体に住めば家賃や光熱費はシェアハウス並みで他には食品の負担位です。
週末に余暇がありますが食事代+興味がかる物品(本とかオモチャ)を買う程度ですから、普通に考えるばお金は溜まります。

そのお金は親御さんが管理しますが、ご両親に万が一あっても生活出来るシステムが出来上がっています。

本来は子供のために思うなら過剰にお金を貯める必要は無いと思います。 遺族が子供さんの財産を次の方へと寄付金があって生活体の土地代や建設資金に回ったりします。

現在は老後に働けなくなったり、もしも寝たきりになった時の対応が可能なように環境面を整備中と聞きます。

物言えぬ彼らの幸福度を上げるにはどんな介助を行えは良いか日々自問自答していますが、実績を持つ責任者の言葉が浮かびます。

確かに介助者個々人が相手の幸福追求をしていると思いますが、彼らは今までその状況の生活を毎日続けてきた歴史がある。 

生活向上の視点での環境改善は大切だが、性急には行えない彼らの生活パターンを深く考えずに我々の思いだけで変えてしまうのはどうかと思うは突き刺さる言葉でした。

6の8 私の今回のトラブルの意味の解釈

3違反→本来の自分のペース(在り方)から離れて周りが見えないような飛ばし方(高速道路のスピード違反)をしていた自分、スピードを緩めたようで速度標識が見れないように物事が見れない状態(一般道のスピード)になっていた。

本来は有るべき所で止まりべきだったが(駐車場違反)、行き過ぎて法則を無視した(信号無視)。

→もしかしたらこの頃から本来やるべき事から道がズレたのか、ズレる危険性があったのだと思います。 青信号から黄信号に!

3事故→本来の自分がいるべきではない所にいて居場所が違う事への厳しい警告(現場事故)、その環境を引き続きける事で他者にも迷惑をかける(車両事故)。

そのような緊迫した環境の中で更なる狂いを発生させて(怪我)取り返しが付かなくなる。
→黄信号が点灯から点滅に赤(危険)信号になる直前に!

そこから負のスパイラルに突入する。

7 建設業の施工管理時代の想い出

7の1 電気土木工事の施工管理・工事アルバム


幹線道路の上のアーチ(門)を取り付けるために夜間に通行止めをすることがあります。 その日までに準備を終わらせて最低限の時間通行止めをします。警察との協議によって通行車両が少なくなる時間帯は22時過ぎから翌日4~5時位が多いです、何かあっても早朝のラッシュに影響しないように予備時間を取って予定の2~3時間前位には終わらせます。

一般の方は目にするのは地中から出た柱を接続する場面ですが、その前の数週間から数か月間前に基礎となる部分の下積み工事があります。

・地中部分に埋められる基礎

テーブルで言えば足の部分ですがサイズは地表部に比べて馬鹿でかいものが埋まっています。

基礎工事流れとしてまず電気、ガス、水道などの埋物の確認を行います。必要に応じて移設依頼をします。次に掘削(穴掘り)を行います、この時に大量の土が発生するので住民の方は気づかれると思います。

・土留風景、担当した案件はここまでは大規模ではなくもう少し縮小した感じです。


土が運ばれたら、生き埋めにならないように土止めを行いコンクリートを流すための型枠、強度を持たせるために鉄筋を入れます。

次に生コンクリート車でコンクリートを打ちます(流し込み)。


・コンクリート破壊試験風景です。コンクリートを打つ時に3本×2組採取して現場で品質確認を行い1週間後と4週間後に採取したコンクリート(テストピース)を3本破壊して平均強度を確認します。

品質管理上で重要な試験なので発注者側の監督員が立ち合うか、受注者の責任者が立ち合います。


このあと公共工事ならコンクリートの強度が出るまで4週間養生します。破壊試験で強度に問題が無いなければ型枠を外して土を埋め戻します。

外からは見えませんが建造物の基礎工事は手間と時間がかかっています。高層ビルも地表の建築物が転倒しないだけの鉄骨等の基礎を地中に埋設します。

基礎部分は仕上がってしまえば人目にはつきませんが重要な部分です。後から検査可能な地表部の目に見える部分より厳しく管理されます。


基礎が出来上がるとアーチ(門)の柱の場合は両サイドの縦の柱を立てて交通に支障のない範囲で張出りを取り付けます。
横はりは通行止めをして最後の仕上げをします。 工程的に通行止めが不要な場合もありますが万一の安全を考えて夜間に通行車両を遮断します。


7の2 太陽光発電設備の管理

2013年に伊勢大湊町の空き地に太陽パネル300kwを設置しました。伊勢神宮の遷宮と重なり現場での試練も多かった年です。


2014年に三重県伊勢市の工場屋根に太陽パネル500kwの設置を行いました。


2014年10月末に現場管理の業務は卒業しました。

7の3 新しい職種に向けて

2014年12月21日投稿記事

給与に対する意識が変わって来ました。 今までは給与等の環境にこだわっていました、生活に必要な最低限なお金は必要かも知れませんが執拗に拘っていた事に気づかせて頂きました。

昔やっていた電話工事の仕事をもう一度やりたくて応募した通信会社の社長との面談時のお話しを紹介します。

コンビニで手にした転職雑誌から「この会社は本当にお客様・社員のために仕事をされている」とここだと直感して夢を叶えるために応募しました。

社長から

・輝かしい過去は美化しやすい
・今のあなたからは現状から逃れたいという恐怖と不安から逃れたいのが見受けられる。
スキル的はほしい人材だが今の社員を守るために不採用です。 ただせっかく縁があったので「幸せ」について数時間話しをしました。

高校卒業から30歳半ばまでやっていた通信工事はその時期に必要だったが今は状況が違うと知りました。

週明けの仕事から「不安から逃れるためではなく、次のステージ」のために感謝の想いで仕事にあたりました。現場が雪で中止になり倉庫整理になりました。 そこで社長から教えて頂いた「仕事がある事に感謝」の気持ちで過ごしました。倉庫整理が終わって報告をしましたら次にトイレ掃除と階段掃除の指示があり点検結果はトイレがきれいになっていないのでやり直しの指示がありました。

後日、給与の関係で断念していた介護職へ転職の話しが出てきて、その方向に進むか別の会社の現場管理の仕事は給料が高くどちらにするか迷いがありました。

介護の仕事は夜間や休日出勤がありますが、今回のように必要以上に上司にピリピリして自分を萎縮させるよりも本来の自分を生かせる仕事を選びたいと思いました。

土曜日に喫茶店にいる時に上司から電話で「今日の出勤は?!」とお叱りを受けました。 先日の金曜日の確認では土日休みと聞いた気がしますが・・・ 。本来の「明るく元気で朗らか」な自分を生かせる職場環境に移行する前の覚悟のお試しでしょうか。

8 猛烈な痛みの結石が再発して完治まで(2018年8月)

8の1 初の通院経験

それは2018年8月29日(水)の水曜日7時頃に突如として横っ腹に痛みが発生しました。10年前の2008年5月の腰痛と間違って痛み続け、尿路結石と同じ激痛でした。 腰痛なら身体の向きを変えれば痛みに変化がありますがこれは全くありません。

前回の治療はメスを使用しない破砕術と言う開腹無しのレーザーで石を破砕して治療しました、最初は一泊しましたが二回目以降は日帰り可能でした。 最後は完治ではなく石が全て破砕されたか見えないところに隠れたかが不明の状態で終了しました。8月29日(水)は12時過ぎに痛みが無くなり、15時半からのアルバイトに出かけました。

その日の0時過ぎに就眠しました。
それは深夜2時過ぎでしょうか、昨日と同様の痛みが発生して朝方まで続き、子供が仕事に出掛けた後に家内に痛みの事を伝えました。

家内から2駅先の総合病院を教えてもらいました。タクシー使用の提案もありましたが地下鉄にしました、紹介状が無いと選定治療費が5400円追加されるとの事でした。

小さい病院に通ってそこから紹介されるのが本来らしいですが、痛みを思えばそれは辛いので費用負担を了解の上で受診しました。
自宅からが大変でした。通勤ラッシュで券売機は暫く待たされて座席も一杯で更に到着駅から病院までの階段の多いこと。

8時15分位に病院到着

8時20分一般外来の受付開始です、新患受付が開くのを痛みでボーしながら待っていました、時間になって受付に行くと最初は総合受付で問診票を記載して「症状から以前に経験した尿路結石」と伝えると通院先は「泌尿器科」と言われて、それらを記入してから新患受付に提出しました。

激痛とは裏腹に一般の予約無しで受付で待つこと30分もすると痛みが和らぎこの記事を書く余裕が出来ました。以前利用者さんが臀部の骨折の痛みで怒鳴り散らす姿を見ましたが、その気持ちが痛いほど伝わりました。

優先順位は命に危険がある救急搬送者、そして予約者、その最後です。以前に尿路結石は激痛があるが命には別状ないと聞いた記憶があります、激痛で起き上がれなければ救急車の手配になるかも知れませんが、そこまでではない辛い立場でした。

これまで通院経験は殆どありませんが、何かの拍子で通院すると、診療の待ち時間を耐え抜くのに健康じゃないと待てずに、身体に辛い所があるのに長時間待つのは大変に感じました。健康の時に病院に行くのは健康診断位で予約済みなのでスムーズに対応がされます。

受付で待つこと1時間の9時半

受付から呼ばれて時間を見れば9時半で約1時間の待機でした。その後の2階の泌尿器科への行き方が分からずにうろうろしました。泌尿器科の窓口で検尿の指示があり説明を見ると便器に放尿すると自動測定するタイプのようで開始→放尿→終了ボタンを押しましたが全く反応が無くて、呼び出しをすると初診はコップに尿を取るとの説明でしたがあちこちの「コップに尿を入れないで下さい」の張り紙は何だったのでしょうか・・・

受診は1時間半後の11時過ぎ

更に1時間半後の11時過ぎに往診を受けるも、症状を確認されてCТを予約をするので検査して下さいの話しがあり、カルテを受け取るのに暫く待ち時間がありました。病院到着から2時間半~3時間目の出来事です。この頃に猛烈な痛みもひいて頭がボッーとして来ました。

CТ検査は30分後の11時半頃・10分後位に診察

11時半頃からCТが始まり10分程度で終わりました、泌尿器科で11時40分から再度の診察待ちになりましたが直ぐ呼ばれて5分位で結果説明がありました。

7~8mmの大きいの数mmの石が数個あって前回の破砕術は適さずに手術を勧められました。1ヶ月後の9月末に受診を受けて更に1ヶ月後の10月末以降に手術予定でそれまでは痛み止めで対処とのことです。

清算を済ませたのは12時20分で受付から約4時間

精算を済ませて支払いまで10分足らずで早い!12時20分に病院を後にして4時間以上の通院時間でした。薬は院内では販売せずにすぐ前に数件ある薬局からの購入か、好きな薬局で購入です。公共機関なので薬は扱えないのでしょうか?

最初の受付窓口で「泌尿器科」が確定出来ての4時間コースですが、痛みだけを伝えたらもしかして「内科」に回されていたかも知れません。そうなればあと2時間位は院内の滞在時間が増えたかも知れません。

8の2 1ヶ月後の通院

8月末に発症した急性の尿道結石の様子を見るために1ヶ月後に通院しました。結果は場所も大きさも変化なしでした。仕事と医師の都合を調整して11月下旬に手術の予約をして、その前の中旬に経過観察と手術準備の検査をする予約を入れました。

9時半予約で10分前に着いてから受診する2階の科の自動受付機に診察券を通しましたが、エラー表示でしたので受付の方に確認をするとこれは精算機で受付の機械はすぐそばの別の所でした。そこで無事に自動受付を終えて前回同様に1階のレントゲン室に向かいました。少し迷いましたが担当窓口にカルテと診察券を提出して待っていると直ぐに呼ばれて9時40分に終わりました。

再び2階に戻って診察窓口でカルテと診察券を提出するとこちらも直ぐに呼ばれて10時少し前に診察が終わりました。

医師に「痛みが翌日治まったこと」を話すと「石が尿道にはまると3日程度強烈な痛みが起きてその後は止まる、そのまま放置するよ石は更に大きくなって腎臓に悪影響を与えて腎不全に至る場合がある」と聞きました。医者嫌いでもしあの激痛に耐えてあと1日放置したら痛みも退いてそのままにしたと思います。その先には医師の言われた最悪の事態になっていたかも知れません。

石のサイズは6mmなので可能性から言えば5mmまでは出やすいがそれ以上は可能性は低いようです、手術の朝に石が出た患者さんも居るらしいです。そんな話しを聞き事前検査と簡単に手術の話しを聞きました。今は切るのではなく尿道から尿管に挿入して石を取りその後に腎臓の石を取る流れです。

前は破砕術と言うレーザーで石を砕く治療でしたが今回は石が6mmと大きく複数箇所にあるので手術が適しているとの事でした。
結石が出来やすい体質で小さい石が残っているとそれを核として巨大化するのも破砕術は適さないそうです。

これは素人の私が考えた空想ですが、破砕術で砕いた石は自然は排出される考えで治療されると思いますが、微量といえ僅かな石が体内で残置することで当初は1つの小さい石が砕いた衝撃で複数に分散してそれが核になって数年、数十年後に私のように元の場所の胆石は拡大化してアチコチに分散した小さい石が発生するように感じました。

2階の精算機で自動手続きをして手ぶらで1階の精算コーナーに向かう途中で、呼び出しは番号なので番号入りのシートが必要な事に気づいて戻りましたが、シートはなく受付の方に対応を聞くと1階の精算コーナーで確認するように話しがありました。

初回は急性で予約無しで終了まで4時間かかりましたので覚悟はしていましたが今回は予想外の速さに少し力抜けしました。

8の3 手術前検査

診断内容は尿検査と採血、画像撮影でした、採血は部屋の中にある受付機械をタッチして受付番号を取得するのが解らずに総合受付の番号かと思っていました。余りに番号が異なるので部屋の受付の方に確認して判明しました。

採血は銀行窓口ではないですが横5列ほどにならび番号表示がされた窓口で行いました。緊張を和らげるためか雑談を言いながらの採血でした、病院の取り決めではなくその方の人柄のようでお陰様でリラックスして採血できました。

医師からの診断は気持ち胆石の位置が下がっている感じはするが呼吸などの関係で位置は変化するらしく予定通り2018年11月26日に手術が決まりました。

8の4 手術前~手術後

手術が決まると手術の諸注意や気になることを聞ける窓口が紹介されました。そこで手術費用の事を聞くと「限度額適用認定証」を教えて頂き手続きを行いました。合わせて加入している保険の担当者に連絡して必要書類を取り寄せました。

手術の前日25日(日)

手術は11月26日(月)ですが前日の25日(日)の昼1時から入院しました。病院ではレントゲン以外の検査はなく下剤でお腹を空っぽにして手術日に便が出ないようにすると聞いていましたがありませんでした。夕食が18時で消灯が21時以外は自由でした。断食は深夜1時からで水分禁止は翌日26日(月)6時からでした。

26日(月)手術終了まで

9時から手術で8時半に手術着に着替えるように話しがありました。
朝食は8時で術後は食べれませんが昼食は12時の規則正しい暮らしです。尿路結石症の治療法の選択にある通り現在の尿路結石の手術では開腹手術は減って「体外衝撃波砕石術(ESwL)」前回の手術は体外からレーザーを当てて胆石を破砕しました。

今回は胆石のサイズが5mmを越えて複数箇所にあることから「経尿道的結石砕石術(ТUL) 」を勧めらられ、こちらを行いました方法は尿道から細い内視鏡を入れて尿管または腎臓の結石をレーザで破砕する手術です。

8時55分に迎えが来て家族と一緒に手術室の入口で担当医師から手術時間などを説明を受けました。その後に本人だけが大広間?!のようなとこで他の患者さんと医療スタッフと顔合わせと挨拶がありました。

ここで本人確認のために腕に付けたIDとの照会を受けました。その後は医療スタッフに誘導されて手術室に入りましが、何かホテルで客室まで案内されるような感じでした。

手術室でも本人から生年月日と名前及び腕のID照会があり患者の取り違えの措置が二重にも三重にもされている感じでした。手術では痛み止めの為に背中から麻酔注射を受けて、下半身の感覚があたかも正座で足が痺れた感覚になりました。

左腕には点滴、右手に脈拍計と胸に心電図用のゴムを付けられました。医師から説明があった通り上半身は意識があるので医師の会話は全て聞き取れて手術中に痛み等の確認のやり取りが口頭で普通に行われました。

手術部分は患者から見れないようなっていて手術が終わったのは10時05分で説明通り手術は30分で準備を含めて60分でした。麻酔が効いて膀胱や尿道に医療器具が入る感覚は全くありませんでした。

手術後は翌朝まで断食で朝から丸一日食事抜きできた、水分は術後4時間程度から大丈夫でした。麻酔の副作用の頭痛、吐き気を防止するために頭を動かさずに安静状態でした。

手術後の夜間に感じた尿道のカテーテルの違和感がとても気になっていました、痛い訳ではなく寝返りも行って良いと言われましたが管が気になって終夜仰向けのまま時折、左右の肩を上げる位でした。

8の5 大部屋の四人部屋で他の患者さんをウオッチング

1人目は多分私より前に入られ点滴を付けて動く方、2人目は私の後に入り26日(月)昼から同じ手術を受る方がいますが、この方は数回似た病名で入院したプロの方が25日(日)の夕方から入りました。3人目は27日(火)の私と同じ9時から手術を受けられ方で、医師ごとに手術時間帯が決まっている感じです。事故で手術を延期され胆石のサイズが15mmで私の2・5~3倍の師匠格の方でした。

病院内の説明を私を含めて3人が聞きました。身長体重測定、レントゲン撮影やシャワー室の扱いは3者同様でしたが病院内の設備や病室の説明は読めば分かるのと大きな意味がないと思われるのでザックリ説明する方や実際に院内を回って説明するなど面白く感じました。

結石手術をする3人は声から聞くと高齢で既婚の方ですが、奥さんの金品管理や手術の立ち会いなど気になることはほぼ共通していました。旦那さんは性格もあると思いますが、おおざっぱで奥さんから言われる言葉も異口同音で、どこの家庭も似たようなものと感じました。

大部屋などで普通に話せば部屋中に聞こえるのでプライベートもあったもんではありませんが、お陰様で退屈せずに見ず知らずの相部屋の方に何か共感のような感覚がありました。

27日(火)~退院

朝食からベットの頭が上げられ術後の安静から少し自由になりました。看護師(介護師)と同行で歩く訓練があります、この時点では点滴袋と尿袋の2つが付いていました。

動いても良い許可が出たので地下の売店に飲食とおやつ、お茶を最長の29日(木)まで購入しました。病室に戻ると尿は正常に排出されているにカテーテル挿入で感覚的に急激な排尿感が出て看護師を呼んで感覚を弱くする座薬を挿入してもらいました。

これで人生初の点滴袋と尿袋、座薬の経験をしました。正直点滴袋は憧れでしたが結構大変で患者さんが点滴スタンドを持って歩く姿は慣れもありますがちょっと大変な気がしました。

担当医曰く手術翌日に管を取ると言われましたが他の患者さんの話しや看護師さんにその素振りもなく経過観察の結果、翌々日になったのかなと少しテンションが下がっていました。しかし担当医師の言われる通り午前中に尿管カテーテルの取り除きが終わり昼過ぎに最後の点滴袋も終わって管から解放されました。14時前に血尿の無い排尿が確認出来ました。

27日(火)は引き続き入院して28日(水)朝に発熱が無ければ退院の話しがありました。問題なく午前中に退院が出来て25日(日)昼過ぎから28日(水)午前中の三泊四日の入院生活が終わりました。月明けに尿管に残置した保護用の管を外来に取り除く治療を受けて年内で全て完了です。

治療時間は1分程度で手術時ほど強い麻酔をかけないので痛みはあるそうです。

8の6 医師と介護士の姿勢から私が学んだこと

医師によって違う退院判断でした。大部屋で4人中3人が同じ尿管結石で手術時間が半日遅れていました。私が25日(日)13時入院 Aさん25日17時入院 Bさん26日13時に入院されました。

手術もそれぞれ半日遅れで行われました。 私は26日(月)9時Aさん26日(月)13時Bさん27日(火)9時でした。

ここから医師による退院が異なってきました。 私は27日(火)午前中に尿管除去Aさん28日(水)午前中に尿管除去 Bさん※私と同じ主治医28日(水)午前中に尿管除去されました。

退院は尿管除去の翌日で 私は28日(水)午前中Aさん、Bさん29日(木)午前中

半日遅れ入院のBさんとAさんが同じで苦痛の尿管も1晩少なく済みました。想像ですが教科書通りがBさんの主治医で合併症防止かと思い、患者の「痛い!」発言に対して「仕方ない、我慢」と一言。私達の主治医は最低限の苦痛で痛みの理由を分かり易く説明頂けた。どの医師も患者への思いは同じと信じたい。

人って痛みの理由といつ頃に無くなるかを知れば同じ期間の苦痛でも耐えられ、アドバイスを頂いた医師に全幅の信頼を置ける。尿道へのカテーテル挿入は脊髄損傷を除いては膀胱内の異物を尿と脳が感じて排尿指示をするので、それを誤魔化すには座薬や痛み止めで伝わりを鈍くするしかない。その事を看護師が説明せずに座薬投与するので患者は戸惑い勘違いを受ける。

臓器にアプローチするより脳外科とタックを汲んで脳への情報遮断が効果が高いと思うが精神安定剤と同様で僅かなさじ加減が人格に大きな影響を与えるのを考えるとパット内での失禁の方がコントロールしやすいように思います。

夜間に介護士さんが患者さんの便失禁の対応で本人さんがとても恐縮していた。院内ではないが同じ介護士として口には出さないが仕事だから気にしないが、感謝の気持ちを出してもらえばそれだけで便の臭みや処理を忘れてしまう。恐縮する気持ちがあれば感謝の気持ちを伝えてお任せするのがお互いに気持ちのいい関係かと思いました

8の7 医療費の限度額認定証ってご存知ですか?

医療費が高額になりそうなとき | こんな時に健保 | 全国健康保険協会

手術などで医療費が高くなりそうな時に事前申請することで支払い限度額が決まります。
医療費が高額になりそうなとき | 健康保険ガイド | 全国健康保険協会

月収20万円(手取り)で5万円ちょっとの支払いになります。精算金額は7万円ちょっとでしたが制度を使用したら税込で5,9万円の限度額の支払いでした。申請は簡単で協会けんぱの場合はホームページから書類をダウンロードして、必要事項を記入後に郵送か持参で提出します。郵送で行いましたが1週間で支払い限度額認定証が届きました。

病院に着いたら直ぐに会計に提出した方がいいと思います、私の場合は日曜日入院で月曜日が手術で退院許可が出た時に提出しました。入院経験は初めてで大きな病院でした。何もしないとそのまま規定の金額で請求が来ます、そこから限度額認定証の処理をすると自分も会計担当の双方に手間がかかりますので早めの提出がいいですよ。

8の8 退院時の注意

出来るだけ付き添い者に来てもらうか、自宅が近ければタクシー利用がお勧めです。

術後の安静期間が終わると歩行確認だったでしょうか看護師同行でベッドから立ちあがり病室周りの歩行確認がありました。丸1日寝てただけで大袈裟と思っていました、家で風邪を引いて1日寝たのと違っていて必要性を実感しました。

退院時の付き添いは辞退しました。開腹手術でなく内視鏡手術なので退院後は直ぐに元通りのイメージでしたが鈍痛があり思うように気力が出ずに、キャリーバックの運搬も辛い状態でした。

8の9 12月13日(木)に尿管内の残置チューブの除去と術後診断

9時半到着して画像撮影を済ませるつもりが10分程度遅れてました。いつもは空いている待合室が混んでいていつもより長めの待ち時間で診察予定の10時の5分前に終わりました。

その後、診察受付を済ませると前の「9時30~10時」の診察が遅れているので総合待合席で待機して、『10時~10時30分』の受付が開始されたら診察室前の待合席に移動するように話しがありました。

結果は、10分程度遅れて開始して10時半位に診断で問題無いことを聞いて、いざ尿道カテーテルの除去の話しがありました。手術の時は下半身麻酔でしたが外来のために鬼頭からゼリーの麻酔を行い、内視鏡を挿入してカテーテルを除去しましたが、何か内臓が引っ張られる感じで痛みより気持ち悪い違和感を感じました。

除去後の診察に時の話しでは、予定より少し時間が掛かったらしいです。カテーテルを除去するとそれまでにあった横腹の違和感もなくなりました。内視鏡を挿入したので、感染防止の抗生物質を2日分の処方薬をもらいました。他の注意事項は当日はアルコール→そもそもアルコール嫌いで問題なし、水分多め(700~1000mL)飲むことでした。

最初に通院した時は診察受付や精算等に戸惑いましたが3~4回も通って勝手が分かり最後はスムーズに進めました。

退院時にカフェで飲もうと思ってコンビニになったので卒業時はカフェでの一人快気祝いをしました、色々な医師のタイプがいますが今回は朗らかで軽い冗談を言ってもらえる主治医でよかったように思います。

9 福祉アルバイトを振り返って

2018年11月~2019年12月 
障がい児デーサービス

週1回勤務で約1年間に勤務しました。休日のアルバイトですが出勤前は理由のないモヤモヤがあって出かけても児童と関わって帰る頃には元気をもらっています。元気だけでなくお金ももらえるお得なアルバイトです。本職同様に彼らはやりたい放題ですが裏表がなく気持ちがいいです。

私の夢は聴覚障がいや心身障がいでコミュニケーションが出来ない、苦手な人の気持ちを共感を通して理解することです。

これで介護関係のアルバイトは終わりになりますが、これまでの福祉アルバイトをご紹介します。

2016年12月 
高齢者デイサービス

全国展開事業所で初めての高齢者サービスです、低負荷の最新トレーニングマシンの導入しているのは斬新でした。

2017年1月~10月 
障がい者訪問介護

「社員の満足度だけでなく、勤める全ての従業員のご家族・ご両親にも応援して頂ける会社を目指しています」の方針に偽りなくアルバイトに対しても丁寧に接していて、管理者さんもアットホームな所です。

2018年5月~8月 
障がい者グループホーム

利用者さんと一緒に食事をする事を大切にして、お世話人一人に負担が行かないように原則2人体制が特色です。勉強会で提供されたパンが美味しかったです。

短期、長期を関わらずお世話になりましたそれぞれのグループのご発展を願っています。

10 偶然が重なり白内障が判明するまで(2020年1月)

10の1 白内障の可能性が分かるまで

1月からの新しい児童デイサービスの職場では多動の子供が多くお互いの怪我を防ぐために業務中の眼鏡が禁止になっていました。業務中に送迎もあるので眼鏡は欠かせずに腰バックに眼鏡ケースを入れて眼鏡の着脱に手間を感じてコンタクトを考えました。

コンタクトの使用を調べると医師の診断が必要でメンテナンスに手間が掛かったり費用も必要な事から眼鏡の着脱で過ごしていました。その後の2月に職場で踏み外してをして転んだはずみに眼鏡が歪んだのでキクチメガネに行きました。そこで視力が0・7から0・4に下がった事が気になるので眼科受診を勧められました。

コンタクト作成の事を聞いてキクチメガネ本店に併設された眼科で受診しました。ここはコンタクト作成のための簡易検査しか扱っておらずに白内障手術可能な眼科での検査を勧められました。

コンタクト作成は可能なので後日交換のつもりでコンタクトの取り付け外しのトレーニングを受けましたが上手く行かずにコンタクトが外せないと困るので保留にして白内障手術を行ったあとの再開を勧められました。

保険証が出来て居らずに全額現金払いを行い保険証入手後に提示することで返金になりました。返金期限は1ヶ月後の3月末でしたが問題ないと判断しました。白内障検査の費用を全額立替るのは厳しいので、保険証が出来た後に受診しようと思って実現したのが3月7日(土)でした。

10の2 白内障の検査結果

眼科受診て白内障が確定しました。検査をすると終日見えづらくなると聞いて左目の手術の時もそうでしたがありませんでした

医師から手術を勧められたのでお願いするとそこでは手術はしないようでした。電話確認の時は手術可能と言われたと思いつつ医師に言っても仕方ないので検査結果が生かされる様に連携した眼科の紹介状を頂くところで終わりました。

10の3 うっかりミスに気付いて

帰りがけに思いだしたのは今日受診したのは名古屋駅近くの眼科でここは予約不要で診断だけ可能な眼科でした。白内障手術可能なのはキクチメガネのコンタクトを作る時に処方箋を発行してもらえる栄の眼科でした。

名古屋駅近くの眼科医から紹介を受けたのは金山駅近くの眼科で医師も腕の良さに感心した所です。栄駅近くの眼科もそれなりで自宅から通うのも楽ですが一から検査を受けるのもどうかと思い何かの縁と思って紹介頂いた眼科に行くことにしました。

受診日を確認する日曜日は休診で3月末に4月のシフトが判明したので4月20日(月)にネット予約しました。4月始めにシフトの関係で平日休みから土曜日休み変更の打診があり、緊急性がある内容でないので予約をキャンセルして4月末に決まった5月の休みに受診します。

10の4 白内障手術~コンタクトデビュー

白内障手術は2回目の事もあり、アッという間に終わりました。10月12日(月)から充血が朝になっても消えないので原因がコンタクトとの相性か付け方かを見極めるために着用を断念してコンタクトデビューを延期するか迷いましたが12日(月)を逃がすと13日(火)は仕事休みで原則水曜日は眼鏡で大丈夫なので3日後の15日(木)になりました。

そこからコンタクト生活が始まるかと思いきや、眼鏡禁止の職場を去ることになってコンタクトが不要になりました。

11 2020年人生で三度訪れた仕事のピンチを抜けて


「夜明け前が最も暗い」「人が乗り越えられない試練は与えられない」などと言いますが、立て続けにピンチが訪れるとそれどころではないと感じました。

2020年1月から4月までの4ヶ月に4度のトラブルが発生してメンタルがピンチになりました。

1度目は送迎先を間違えて1時間以上遅れました。
2度目は狭い道で対向車両とすれ違う時にミラーを接触、警察に事故報告をして相手が見つかり双方の保険会社に任せることになりましたが、そこまでまで悶々としました。
3度目は新しい配属先の駐車場で車止めを乗り越えて壁と接触しました。
4度目は子どもに感情的に怒ったことで厳重注意を受けました。これが一番こたえたトラブルでした。

ここまでトラブルが発生すると超自然的な働きがあって人知では防げないと観念しました。注意は必要だが成るようにしか成らないと想いを変えました。しばらくすると台風一過のようなすがすがしさを感じてそれまでの遅滞した気持ちが180度反転して、人生3度目の大きな試練を乗り越えた感じがしています。

12 「あなたが初心者だろうが未経験者だろうが、したいことがあれば3年あればなんでもできる」の記事を見て

障害児童と関わったのが2018年11月でした、これは今まで障がい児童デイサービスの求人が教諭や保育士対象だったのが法令改正で福祉関係者も対象になったのが理由でした。

高額ネット講座を受講するための副収入が必要になってしっくりくるアルバイトだけをする方針で始めましたが分割払いが完納するので最後のアルバイトでした。

30万円超えする講座を受けたいと思わなければアルバイトはしなかったし子どもと関わる事もなかったと思います。求人は最低3ヶ月勤務が条件でしたので完納までの半年のつもりでしたが気づけば1年たっていました。職場のスタッフが良い人ばかりで人生初の子どもとの関わりも性に合ったのかも知れません。

自分の子供は20歳過ぎまで仕事で全国回りをして関わる事がありませんでした。

障害児童との関わりが楽しく、5年務めた障がい者介護職から2020年1月に児童デイサービスに転職しました。ここに至るまで偶然とは思えない出来事が続きました。

児童デイサービスの管理者になるために講習受講の条件が福祉関係者は5年間の職務経験が必要でした。2019年12月に退職したので入社から数えて5年で受講資格に該当します。

受講資格は経験年数と勤務先の推薦が必要になります。施設によって2年勤務とか期限を定めずに管理者としての適正が確認出来た時点での推薦になると聞きました。

2年縛りの施設は勤務経験だけですが、期限を定めない施設は管理者として現場職員との対応や指示、保護者との対応や勤務形態など上司の判断が基準らしいです。

前者はアットホームな高齢の経営者で年功序列の考えで後者は実力主義の若手の経営者でスキルさえあれば数ヶ月で認められ管理者講習の受講推薦も受けられる月収も上がります。半面能力無しと判断されればどんな待遇かは不明ですが施設に居づらくなりそうです。

2020年1月に前者の会社に入社して2年間が長く感じて後者の会社に転職を考えました。そこで求められている人材は1人だけ特化したスペシャリストではなくメンバーと調和してやっている人でした。

全体と上手くやって特化した才能を見せる何となくみんなで一緒にゴールインするマラソンに感じました。結果的に転職は取りやめましたがどちらが良かったかは不明でした。

13 好きを仕事をしても苦手なことはありる、そんな時は!

2020年5月の仕事は「子供発達サポート」です。前から何となくやりたかった事をアルバイトから始めて別の所ですがフルタイムの職員になりました。面接の時に「子供は好きですか?」の質問に戸惑った事があります。それは「子供嫌いならこの仕事は選ばない」のにと思った事があります。

その質問の趣旨が分かったのは数ヶ月後でした、入社される方は保育士さんが多いのですが時に保育や福祉とは全く関係ない職種からの転職者もいます。中には社会貢献したいの理由の方も居たので応募の真意が知りたかったようです。

好きで選んだ仕事と言え苦手な事はあります、結果的に自分を成長させるきっかけと分かっていても乗り越えるまでは産まれ出ずる苦しみがあります。

苦手のことは「記録帳の記載」と「リクレーションの提案・実施」です。何も深刻に考える必要はなく他の方は気軽にやっていますが私は考え過ぎて苦痛になっています。

担当が分かるのは早くて前日の夜か当日です、昨日は管理者に記録のコツを聞きそれを実践したら上手くいきました。今後も難解パズルと思い楽しんで取り組めればと思っています。

14 「豊かさって何だろう?!」について再考しました。

14の1 自分が心地よいと感じること

それは年代と共に変わっています。ざっくり40歳代以前は人に「干渉されずにひとりで過ごす時間」が好きで豊かさを感じていました。

当時の実状は反対で官公庁仕事で接待の日々でした。私は現場の人間でしたので営業さんの仕事でしたが涙ぐましい努力をされていました。

下水道処理施設の電気工事の時に民宿で泊まった時に機械設備の監督さんに夜な夜な飲みに誘われた時は閉口しました。

お酒が駄目でその人の下請けではないので付き合う義務はないのですが、現場で日々顔を合わせるので理由を付けて断っていましたが数回に1回付き合っていました。

それが50歳前にチームプレーと言われる工事現場の仕事から訪問介護と言われる1対1で介護を行う仕事に変わるとあんなに嫌だった人からのお誘いが懐かしくなりました。

介護の人間関係が薄いと言うことではなく、職場の勤務は夜勤がメインで昼はその明けになっていました。常に誰かが勤務していて全員が揃う事は困難で以前の職場のように全員参加の懇親会は望んでも不可能でした。

隣の芝生は青く見えるではないのですが、職場が変わればあの頃は良かったになります。夜勤メインで週2日平日休みの勤務形態になりました。

それまでの土日昼夜を関係なく馬車馬のように働いて担当件名が終わった後や盆正月にしっかり休める仕事と週2日休んで盆正月関係ない仕事のどちらが豊かな生活だったかと今思えばどちらも満足出来で・自分にとって豊かなでやりがいのあった日々であったように思います。

14の2 自分にとっての特別な時間・場所・もの

その時々で変わりますが仕事終わりにマクドナルドで見知らぬ人に囲まれて食べる夕食や一杯のコーヒーを飲んでゆったり出来る時間が自分にとって特別で豊かな時です。

14の3 これから「ゆたかさ」「幸せ」の基準になっていくと思うもの、こと

振り返れば生活のためや欲しいものを買うためのお金を必要に思いほしいと思ったことはあります。

お金はあくまでも豊かになるための手段や1つのツールに思えています。豊かさは心1つで感じられるように思います。どんなに忙しい時間でも缶コーヒーを飲む数分の時間は出来ます、その数分の想い次第で豊かな気持ちになれます。人生を半世紀生きた今はそのように感じています。

逆にどんなにお金や時間があってもそれが豊かさとイコールではないように感じています。

これまでは一人が好きでしたが、一人で見る風景より気の合う仲間と見て語れるのが豊かさのように今は思っています。豊かさと感じる事は人生経験と共に変わってくるものかも知れません。

15 この世に生まれた意味・使命はあるのか?それが無ければ楽に思えた

重度の知的身体障害を保ちながらヘルパーに勇気と元気を与えて亡くなっても関わった人の想いに生き続ける彼ら、こんな生き方をしたい。

スピリチュアル世界を知り学んだ事で、この世界には目的=使命を持って生まれるその行動結果の評価があの世に帰る時の評価と信じていました。

だからこそ日々の暮らしで何か形を残さなくてはいけないと思って、無意識に人と比較して私にしか出来ない事を行った点数を付けては一喜一憂していました。

つまり目的があって生まれて来た考え、しかし人は先に存在があって生きていく中で目的を見つける考えを知って何だか楽になりました。

生きて居るだけで生まれた価値があって、暇つぶしやより楽しむために目的なり使命を後付けで行なったり考えたりします。

これまでのスピリチュアルなりセラピーに使った数百万円のお金の意味がパァになるが楽しめたのだからそれでいいのかも知れない。

この世はテーマパークで楽しむのが目的なら数十回の転職もある意味目的がないドキドキワクワクが楽しめた!それを続けるかどうかは自分の自由。

もしかしたらあの世も神も居ないのかも知れない、とすれば自分が亡くなった後は全く何も無いので心配ない。あの世があるとしてもそれなりの経験と知識を付けたので多分大丈夫!

今回はつまらない毎日から楽しみや目的を意味づけるゲームをしているのかも知れません。だから職場で頼られたり、やりがいや目的が見つかった途端にゲーム終了になる。ただゲームのルールを変えることも出来る。

ある人はコロナは陰謀的に作られた人類を奴隷にする目的があると言われたり、神からの送りものでアセッション(次元上昇)するために発生したとも聞きます。真実なんて分かりはしないのだから、どちらでもその人が信じたいように考えればいい。ネガティヴな捉え方が悪い訳ではないが私はどちらでも取れるなら楽しい解釈がいいと思っいます。

陰謀者も神の手のひらにあって水戸黄門の悪代官のように、もしそれが居なければ物語が成り立たない裏と表の世界。

16 人生で起きた度重なるトラブルの意味は?!

16の1 人生初の1年毎の3連発のトラブル

これまでの社会人生活約35年の中でここ10年がとても濃厚というかトラブルが続発しました。

派遣会社から情報板メーカーに転籍出向して1年毎に起きた交通違反、駐車違反から始まり速度違反そして信号無視で捕まって3年半務めた職場を変わりました。交通違反はあくまでもプライベートの出来事で退職には関係ありません。

16の2 人生2回目の重大トラブル三連発

次に太陽光発電パネルの販売、施工会社で入社1年目で新設の工事部門で初の労働災害が起きました。その日から翌日までに車の接触事故、更にあわや2度目の労働災害発生間際になりました。これがきっかけかは分かりませんが1年半務めた職場を去りました。

16の3 人生3度目の頻発する交通事故

そして2020年1月に入った児童デイサービスで業務上の不始末から始まり対向車の軽度の接触事故、駐車場にバック駐車時の接触事故と3ヶ月半の間に連発しました。

1ヶ月半後に落ち着きましたが、暫くしてから届出の必要な事故が発生して、これで交通事故関係で3回目になります。

16の4 これらの意味は

労働災害も交通違反、交通事故は誰しも望んで起こすものではなく経験の無い他者からはウッカリや注意不足と見られます。

連発に遭遇した当事者から言えば最初はその通りだか次からは人知を超えた力が働く感じでどんなに気を付けても待避困難に思われます。労働災害を無くすには現場から離れること、交通事故の加害者にならないためには車に乗らないことしかありません。

仮にそれをやっても天からの試練は形を変えて手を替えてやってきます。そこから逃げるのではなく何を学ぶかではと思います。

私は何を問われいるか分かりませんが、次になる人生ファイナルの仕事に向けて強固の信念、動じない心を持って物事に接しられるように鍛えられている感じを受けました。

17 転々と職を変わった人生にも意味はあった

人生100年時代として前半半世紀は通信技術者(電話工事)家さんと現場で電気土木と言われる土木工事を必要とする電気製品を設置していました。

その約50年間は職を転々としましたが自分なりに筋が通った生き方をして、面接の時にも説明できます。

後半人生で80歳寿命としたら折り返し地点で技術・建設業界から福祉業界に転身しました。1つの事をコツコツ何十年も続けられる方を尊敬しますが私には無理な生き方です。

よく分からないが過去50年間は土の下に隠れる基礎の時代かな〜。完成すると土に埋められ見れなくなるがいざと言う時に大切なものです。

その上に家などの構造物を立てていくそんな感じでしょうか、過去の行いは決して無駄にはならない。

18 走馬灯の如く人生を振り返って

SNSで同年の55歳で面識ある方が亡くなったのをきっかけに、40代で亡くなった方の記事を見たりしました。40~50代は亡くなりやすい世代ともありました、

戦国時代なら人生50年ですが、朝起きた時に腎臓部分に痛みがありトイレを済ましても治まらず無事帰宅出来るかなと思ったりしました。それと同時に結婚式のメモリアルビデオではないですが、それまで人生が浮かんで来ました。

18の1 社会人で初めて地元から離れたこと

18の時に初めて地元名古屋から離れて千葉県我孫子市の親会社へ新入社員教育で同期入社の2人と先輩と上司の車で単身赴任で上京しました。

仙台、横浜と巡ってそこで先輩に連れられて夜な夜なスナックに行ったことやある日曜日に樹氷を飲み過ぎて意識不明になってぶっ倒れたことがきっかけで酒が駄目になりました。

18の2 我孫子でろう者と出会ったこと

我孫子の工場でろう者と出会った事がきっかけで社内手話勉強会に参加して福祉ボランティアにはまりました。

勉強会のメンバーと一緒に富士山に登ったり、全国手話通訳研究会全国集会で北海道に行って難聴者が孤独な事を知り出会った人に片思いの初恋をしたり工場の子に告白してふられたりしました。

18の3 20代半ば授産施設職員になったこと

地元名古屋に戻って実家の北区手話サークルで岡泉さん、小松さん、坂上さんと出会う事で人生が変わりました。岡さんは30代で亡くなりましたが大晦日に自主手話サークルのチラシを作った事は思い出深いです。

岡さんから授産施設施設の職員募集を知り後先考えずに転職して、そこがわっぱの会が共生共働を目的に作った場でした。わっぱの会の本当の趣旨が理解出来ずに目先のパン作りに馴染めずに1年ちょっとで退職しました。

その20年ちょと後にそこの施設長からの電話がきっかけで50歳になって再びわっぱの会に関わり訪問介護で働きましたが、5年後に退職しましたが、当初はそんなことなど夢にも思いませんでした。

18の4 30歳中頃に職種を変えました

それまでは電話機器修理・工事・メンテナンスの仕事から結婚を機に建設業の現場管理で全国を転々とする生活に変わりました。

当初は「電子交換機」や「施工管理」の言葉も知らないまま入社して分かりました。

18の5 官公庁の施工管理で泣きながら社に戻った

当時は新人研修などなく現場で仕事を覚えるスタイルでした。手書きからワープロに切り替る頃で名古屋から岐阜の建設省(現国土交通省)に担当者として何も知らずに単身打合せに行きました。

その結果は何かと叱られり難問を言われたりして帰り道は泣きながら車の運転をしていた事を懐かしく思えました。

18の6 日本セラピスト支援協会と出会って

協会を知った時は何の資格も無くセッションも出来ませんでたが、協会に問合せると入会は大丈夫で即入会しました。

EFТに興味があったのですが東京と大阪しか開催されて居らずに受講したいと思いつつそのままでした。ある時に関東方面の出張が急転して大阪出張になったのをきっかけに念願だったEFТレベル1・2をちゅんさん、もっちゃんから受講出来ました。

大阪出張中には大阪特有の土地柄や反民反官の発注者の慣れない仕事でストレスMAXでちゅんさんに無料相談に乗って頂いた事もあり、名古屋の安田さんが主催されるEFТ勉強会で数回お会いして練習会帰りにお茶を飲んだりセラピーイベントに同行したりしました。

18の7 セントレアで2度のセラピーイベントに参加

日本セラピスト支援協会主催の中部国際空港を会場とするイベントに2回もお手伝いをさせて頂きセラピストさんと感動の打ち上げを味わいました。

18の8 虹の和リリアンとの出会いと別れ

ブログで稲田佳世さんを知ってどうしても会いたくて仕方無くで、訪ねた先が意外と近くのいつもよく行く栄にあった虹の和リリアンで副代表をしていました。

そこで浅井ゆり先生やその他に色々なメンバーと出会いました。同時期に秦由佳さんのブログがとても印象に残って気になっていてリリアンの関係者と知って合わせてびっくりしました。潜在数秘術協会の代表をされている事を知りました。

その後の2020年に稲田佳代さんとアイアイアソシエイツの名古屋集会で再会して、浅井ゆり先生と念願の自宅セッションを受けられました。

虹の和リリアンの拠点は栄から移りましたが当時メンバーである大塚貴子さんとは自宅近くの喫茶店で何度かタロットカードセッションを受けたり大塚さんから紹介頂いた富田耀心さんからセッションを受けたりしました。

18の9 大阪でのセラピー三昧と退職場面のリフレイン

大阪では EFТレベル1・2を封切りに潤沢な出張手当でセラピーの資格を取りまくった思い出や.それまでは幾度とあった退職場面も思い浮かびました。同時に仕事の合間に行って楽しかったボランティア活動も懐かしく思い出されました。

18の10 死を見つめる事は生を見つめる事

人は生身ですのでいつ何があるか分かりません、戦国時代ほどではありませんが一服のお茶を同席した人が明日会える保証は何処にもありません。

知的障害者の介護をしている時に40代の方で「また明日」と別れた人が翌朝亡くなったり、骨折で念のため検査入院した方が急変して帰らぬ人になったりと悲しい経験がありました。

障害のために言葉が話せずに痛みを伝える事が出来にくい方々で特別な例かも知れません、バリバリ働いていたサラリーマンがお会いした1ヶ月後には亡くなり二度と会えなくなったことも経験しました。

毎日会う方とはなかなか難しいかも知れませんが親しい人ほど「一期一会」で接して何があっても悔いを残さない生き方が出来ればと思っています。

19 自分が本当にやりたい事を問われる時期・時代かもしれません。

あなたは自分の本当にやりたい事をやって生きていますか?!

ブロガーかさこさんの問題提議がとても印象的でした。

『若い時はいい。何者である必要はない。でもだんだん年をとるにつれて
「それであなたは何がしたいんですか?」
「それであなたは何ができるんですか?」
「それであなたは何をしてるんですか?」
ってことがシビアに問われていく。
今それで何してるの?
それで今は何屋さんなの?
結局何がしたいの?
ってこと。』

私はいま、これを問われているのかも知れません。

これまで障害者支援(介助)1本でやって来ました、一度高齢者デイサービスのアルバイトを始めて3回位でリタイアしました。

職を無くして転職アドバイザーから「障害者」対象のみでは求人は限られると聞き、「高齢者」介護に強い抵抗が無ければ応募だけでもして話しを聞いて高齢者介護の良さが分かるかもと言われて面談を受けました。

アドバイザーから余り良い返事が無く面談中に「高齢者介護が未経験↓」のテンションが下がるのを感じました。

同じ介護と言っても人によって「高齢者」と「障害者」ではヘルパーのタイプも大きく変わります。障害者支援の話しなら一晩でも尽きないが高齢者は・・・・の状態です。

人生成るようにしか成らないと感覚的に分かりながら頭は焦りを感じる今

この先はどうなるか分かりません、仕事は人生でやりたい目的を達成するための手段とも聞きます。どんな方向に進んでいっても本音部分は埋もれさせずに突き詰めていきたいです。

20 障がい者福祉に関わるきっかけと想い出

私が障がい者を知ったのは20代初めに工場内に居たろうあ者と出会った事からです。社内手話勉強会に参加して手話通訳を集会で北海道に行ったのを封切りに難聴者向けの要約筆記や点字サークルで学んだり、盲ろう者ガイドヘルパー活動をしました。

50代初めに障がい者介護が仕事になりました、利用者さん中高年の方が多く激しい性格の方も居ましたが大半はおとなしい方でした。彼らとの出会いは30年前に出会って顔見知りでした、

始めて3~4年すると別のグループホームのYさんが予兆なく朝亡くなっていました。私が夜勤と日勤の週半分勤務するグループホームには車いすベッド生活の方3人住んでいました、担当する1人は還暦を超えた高齢者男性で他に中年の男女の方が1人づつ居てその方々は30年来の知り合いでした。

同性介護が原則で女性の介護はありませんが、ヘルパーさんの移乗の補助で呼ばれる事があり昔話を懐かしく話したりしました。男性は人見知りする難しい性格で挨拶以外の会話は殆どありませんが研修で何度かお世話をさせて頂いた事がありました。

ある日に女性の部屋がバタバタして自家用車で病院に行かれました、救急車は呼ばれ無かったので緊急性は感じませんでしたが後日病院で亡くったと聞きました。しばらくして別室の男性が足腰を痛めて大事を取って入院していましたが退院日に急変して無くなりました。それまで元気だった30・40代の健常者が亡くなったと聞くと交通事故を真っ先に考えます、何かの病気で入院中ならそちらも考えるかも知れません。

亡くなったお二人と面識はありましたが介護したことはありませんでしたが関わったヘルパーさんはショックだったように思います。

3人共24時間体制なので多くの人が関わっていました、亡くなる事で他の方の担当になりますが情的に割り切れない想いはあると思います。知る範囲では二人の介護をされていたヘルパー2人退職されました。

ふと私の担当している方は間もなく65歳を向かて障害は別にして人は誰しも歳を重ねるごとにあちらの世界に近づきます、これまで関わりの深かった障がい者も高齢者になる事を改めて気づかされました。

21 スピリチュアル観点から観た我が人生

20歳後半位に障がい者の就労支援施設に入って1年半勤めました。そのまま続ければ30年選手で人を指導するか管理者クラスでした。

超厳しい建設業界に勤めました、職人さんとの付き合いは楽しかったのですが所長クラスの会議はそれぞれが自社に少しでも有利で儲かるように熾烈なやり取りがありました。

当時の自分の仕事を聞くと多くの方が福祉関係と思われていました。会社の先輩から甘い顔をすると他者からなめられて下に見られるので他社や職人には威厳を持ってと教えられました。

これが苦手な同僚と2人、性格に合った方法で力で勝ち取るではなく話し合いで要求を通してもらうように働きかけていました。

50歳過ぎに福祉業界になった時にそれまでのスタイルで良くなったことで気楽くになりました。ブラック企業や厳しい上司の下にもつきました。

ある意味世間の闇部分です、暗闇があるから明るさのありがたみが分かる様に30年福祉業界に居たらその環境の良さが分からなかったかも知れません。

障がい者介護に5年間居て3年目に介護福祉士資格を取得して、5年と言うのは児童デイサービスの管理者になれる最低年数と後から知りました。

そこから児童デイサービスを10ヶ月勤めて意図しない理由で退職しました、何故退職しなければいけないのかモヤモヤした時もありましたが10月10日で赤ちゃんが産まれる最低期間で卒業したと思えるようになりました。

その間に保育士試験受験も出来ました、結果不合格でしたが在籍期間に保育士の基礎知識を学ぶ事が出来て神の見えざる手で次のステージに進まされたと理解しました。

障がい者(児)介護、支援から高齢者施設の勤務になりました。これも今までの人生を振り返ると神様が何らかの方向に進ませる運命かな〜と思え始めています。

「神は乗り越えられない試練は与えられない」「人は幸せになる義務がある」を胸にこの先の人生を送りたいと思っています。

22 手術入院まで4ヶ月の経過(2020年12月)

2020年12月に慣れない業務のストレスで心療内科に通ったりしました。そんな中で病気になるか見つかって入院して仕事を休みたいと思っていました。

いつもはスルーの無料の名古屋市の大腸ガン検診で検便提出しました。年末に結果を聞きに行くと、まさかの陽性で更に内視鏡の精密検査が必要と言われて専門医院を紹介されました。

1月始めに内視鏡検査を受けて小さなポリープなら検査時に摘出の同意書を書きました、内視鏡検査は以前に経験があってその時は異常無しで同様かと思っていました。

結果はポリープが数個見つかりましたが入院摘出が必要と言われて総合病院を紹介されて受診しました。画像を見た医師は日帰りで全摘にチャレンジして難しければ後日入院手術の診断がありました。

1月末に外来で摘出手術を受けると3つある内の2つは球状で取れたが残り1つはへらぺったく広いので三分割しての摘出が必要になり術後の経過を見るために入院が必要と言われました。

手術日を決めるために2月上旬に通院して希望の2月末を伝えると2月は既に一杯で早くても3月始めで早急な手術は必要ないので4月以降でも可能の話しがありました。

いつか手術が必要なら早めにと思い3月初めに決めました。入院は1週間で外来手術前の検査の心電図に異常な波形がありエコーそしてCТ検査をして異常無しの診断がありました。

CТ検査の時に腎臓に白い塊が見つかり泌尿器科での受診を行うと2cmほどで悪性とも良性とも判断できないために定期受診で様子見にしました。

23 自分は何処で何をしたいかの答えは見えないけど

今ある場で何が出来るか、何をやりたいかを考えればいいように感じました。要は「与えられた場所で咲きなさい」みたいな。

この世には生きたくても生きられなかったり、突如生きることをストップさせられる人もいる中で今日も朝目が覚めて望んだ職種で働けるのは幸せと分かっていてもマンネリから刺激を求めてしまう自分です。

そんな中で原因不明の低テンションが続いています、そこで元気を頂けるのは高齢者のさりげない優しさです。

介護施設でのささやかな楽しみは認知症の方に座席やトイレをさりげなく案内して時に利用者さんがホッとされたり笑顔になったり、思い出を楽しく話される時です。数分後にはその話しも忘れていますが何度でも話しを聞いて元気を頂いています。

24 親族を亡くして故人を想うこと

2020年9月29日(水)の深夜に親族が亡くなった連絡を配偶者から頂きました。脳腫瘍の手術後から植物人間になって入院前に「万一の時は延命治療はしない」が本人の意思でした。

それを尊重して回復の見込みが無ければ、その時が来ることを想定していました。コロナ禍で面接が出来ずにタブレット越しに見たのが最後の姿でした。

年下の方を見送った経験は障害者グループホームで重度の寝たっきりの方が3人居てその内1人が還暦を超えた方が担当で他の2人は中年の方でした。

1人は治療の為に入院中に悪化して亡くなった女性だったのですが、女性でしたので何となく気管切開してカニュウレイを挿入するのが嫌であちらに帰られたように通夜の日に感じました。

もう一人は男性で人見知りが激しく人に掴みかかる時もありました。この方は骨折で入院して退院前日に急変して亡くなりました。

2人は心優しい方でグループホームで亡くなれば現場検証で警察などが入ってバタバタするのが嫌で病院で旅立ったのかなと思ったりしました。

重度障害の方は話しは出来なくても本当に心清らかで優しい方が多いように感じました。

もう一度重専(重度障害者の専門のヘルパー)になりたいとも思いましたが出会った方とはその施設でしか居らずに二人として同じ人は居ない事を思いました。

亡くなった近親者の話しに戻します。通夜の日は早退しましたがスタッフに比較的余裕のある日で告別式はたまたまの土曜日休みでした。

帰りに利用したタクシーでは誤った道を指示して乗車時間が長くなり金額はかさみましたが神様の時間調整に感じて、何となく故人がその方に多少でも多めに収入が入るような仕組みだったように感じました。

男同士の兄弟はどこもそうなのか家たけか分かりませんが余り会話もなく参列者や記念アルバムを見て弟の生き様を見た感じでした。

本来は近親者のみの通夜の予定でしたがどうしても参列したい希望者の方も参列されて故人の人柄が偲ばれました。自分も残りの人生、人に慕われるような生き方が出来るように出会う人々と真心で接したと感じました。

25 それは月曜日に始まり日曜日に終わった

25の1 人を呪うことの怖さ

ブログで身近な人に辛い思いさせて別れの原因になりました。私のブログを見つけ方はどんな想いかは分かりません。

「人を呪われば穴二つ」です、恨みを持って相手を呪い殺しても、その呪いがブーメランのように送った人に返ってきます。相手が純心だった時は無傷で送り手に跳ね返ってきます。

自分がどんな想いでブログを書いているか、その文章は相手を傷つけていないかを今後も十分配慮して続けていきます。

25の2 母親の怨念から許されて

私のスピリチュアル体験です。昔駅のホームから飛び降りたくて仕方なく、その理由を内心で問うと「前世に私に子供の命を取られた母親の怨念」が浮かびました。

対話の結果はお詫びを込めて「子どもの幸せのためにこの命を使う」事でその場は収まりました。

数十年後に障害児に関わる仕事に就きましたが10ヶ月後に予期せぬ事態から終わりを告げました。子どもが産まれ十月十日ですが、母親の怨念が溶けたように感じました。子どもへの至らなかった言動はその次の職場で子どもに関わった時に生かせたように思います。

25の3 重度障害者の優しい気持ち

障害児と関わる前に、5年間寝食を共にした重度の障害の方から、「もう私たちの事はいいのです。本来やりたかった事やるべき仕事をやって下さい」のメッセージを感じました。

その時は2015年から5年務めた障害者グループホームで彼らの幼少期や青年期に関わりたいと思う中で、見つけたのが児童デイサービスでした。2020年1月から10月まで務めました。

25の4 色々あった56歳

2020年12月の誕生月(56歳)に予期せぬ高齢者施設勤務、翌2021年4月(56歳)から新しい障害者(児)・高齢者の多種類の仕事で最後2ヶ月は初の就業継続支援でした。

2021年11月(56歳)高齢者介護の場に移りましたが56歳になってからの1年に色々ありました。

25の5 捨てる神あれば拾う神あり

去る事が決まった2020年10月のラスト1週間月曜日に私の欠点や短所を教えて頂いて、同じ過ちを繰り返さないように決意しました。

月曜日PMに転職活動を開始、火曜日の面接で長期の転職活動を覚悟して自分の短所を打ち明けました、水曜日に理解ある会社から採用通知があり、木曜日に退職日を打診して月末の日曜日に決まりました。

木曜日夕方〜日曜日まで借用品を手渡しやボスト投函、配送でお返して1週間の短期で次の職場に移る準備が完了しました。

26 障害者支援から高齢者介護に軸足が移った訳は?!

26の1 2015年1月から仕事で障害者と関わる

2015年1月にそれまでの建設業界の監理業務から介護業界に変わりました。その5年後の2019年12月まで障害者の訪問介護を行いましたが夜勤がキツくなって去りました。

26の2 2020年1月児童デイサービス

2019年末に人生初の介護職に職種変えして念願の障害者介助を仕事にして5年を経ての退職をしました。

2020年1月から約1年アルバイト経験のある児童の発達支援、児童デイサービスに移りました。2年後の2021年12月に取得出来る児童児童員の念願半ばに意図せずに20201年10月に退職しました。

26の3 空白の2020年11月

転職先を転職エージェント経由で「障害者施設」を探して頂きましたが、高齢者施設に比べて圧倒的に少なく更に公共機関で通えて、最低限の希望給与のところは中々見つかりませんでした。

生活の為と高齢者に対しては抵抗が無い事から「高齢者施設」も対象にすると、早速転職先が見つかりました。

26の4 2020年12月高齢者施設の勤務

2020年12月から大手介護サービス会社の小規模多機能施設と言われるデイサービス、訪問介護、泊まりの機能を持つ施設です。人生で初めて高齢者と接しました。

運悪く大腸ガン検査で陽性になり入院手術で大腸ポリープ摘出を行い、更に心臓波形の不整脈が見つかり精密検査の結果は問題なしや腎臓下部の腫瘍が見つかるなどトラブルが続きました。
最初の数週間はよかったのですが研修が終わるとスタッフとなりフロアや入浴、夜間、送迎と矢継ぎ早にやる事が増えて来てメンタル的にダウンしました。

管理者と相談しつつ、立て直そうとするものの現場のスピードは速くて全く追い付かずフロアも送迎も遅れ気味で他のスタッフに迷惑を掛け続け辛かったです。

そんな折に1500円の図書カードを貰う目的で行った転職フェアで話しだけと思ったのがピッタリの条件の会社が見つかりました。迷いましたが障害者と関われ最後のチャンスと思い自宅から1時間以上掛かるところに変わりました。

26の5 2021年4月障害者支援・高齢者施設の勤務

2021年4月からNPO法人で高齢者、障害者複合施設に転職しました。これまでの総集編と言った感じで「移動支援」「児童デイサービス」「高齢者施設」の仕事を日替わりで行っていました。

入社後の数ヶ月してから「高齢者施設と障害者支援の勤務」で前者が7割位あるので徐々に当初の話した通りに障害者支援の比重を上げて、「将来的に夜勤を減らすよう」にお願いした事が裏目に出たようでした。

更に「半年以上高齢者と関わる事で楽しさを覚えて高齢者施設の勤務をメインにしたい」と伝えて発言が二転三転してよく分からない人と思われました。

最後は人生初の「就労継続支援B型」に2ヶ月ほど勤務して奇しくも昨年と同じ月の2021年10月に予期せぬ退職勧告がありました。

入社時の4月から有期雇用で10月まででしたが、3ヶ月後の2021年12月までの有期雇用の更新の提案もありましたが、その後の更新の可能性が無いと宣告があり大いに落ち込みました。

前回と異なり離職まで2ヶ月の猶予があり、反省を生かして転職活動の履歴書に欠点を書き最初に伝えるようにしたので転職の長期戦を覚悟しました。

26の6 2021年11月「高齢者施設の勤務」再スタート

予想に反して数日で次の会社の採用が決まり2021年11月からの入社になりました。面談と適性試験があって、適性試験では履歴書に書いた欠点が綴られていました。

どこの会社に入っても文化に馴染むまで時間が掛かり、私は適応性が弱いので更に時間が掛かると思います。よく聞くのが「辛いのは最初の3ヶ月は辛いがそれを乗り越えれば大丈夫!」です。

入社間もない時は大変だったり落ち込む事も多いですが早く順化して後から来た方に寄り添えるまで成長期したいと思っています。

27 やっぱり障害者支援がしたい!

27の1 2022年11月「重度訪問介護」スタート

高齢者デイサービスで六ヶ月そして老人ホームで三ヶ月を過ぎた頃から「これでいいのだろうか?」「これが本当にやりたかったことだろうか?」と自問自答し始めました。

そんな日々の中で経営理念に共感する方の記事を見つけて読むと「重度訪問介護」等を手掛ける会社の最高責任者と知りました。
ウェビナーでその方の講演を聴き、この人ならの確信を得ましたが会社概要紹介のzoom紹介の参加申し込みまで暫く期間が空きました。次のステップの面談に申し込みも怖さからキャンセルしました。

仕事は多忙さから1日はあったいう間に終えて退職勧告を受けた訳ではないので勤めようと思えばこのまま継続出来てこれまでの転職に関わる手続きや新しい職場で1からやり直す事への抵抗もありました。

その会社(代表)の動画を観たり、障害者問題に関する書籍を読んだりして代表の言葉が在り来たり綺麗事ではない事を感じて、自分が数年で還暦を迎えるにあたって介護職最後の職場の気持ちで「よし」と思いオンライン面談に申し込みました、

面談段階でも踏ん切りがつかずに様子見のために非常勤で始める事を伝えました。
面談を終えて自分の想いをみつめると、自分や周りに対してその程度の軽い気持ちで業務に取り組むのはどうかと思い直して「覚悟を持って取り組むために常勤社員」をお願いしました。

【ここまでの介護歴(7年9ヶ月)】
障害者(知的・発達)5年
障害児10ヶ月
高齢者(デイ・施設)1年4ヶ月-2社合計
障害者/障害児/高齢者複合7ヶ月

28 これまでを仕事振り返って

28の1 通信(電話)技術者時代

高校を出て初めて就いたのは「電子交換機」技術者でした。どんな内容かと言えば電話と電話をつなぐ交換機器の製造、メンテナンスの仕事です。

電話交換機器の歴史
1952年 ステップ・バイ・ステップ交換機


1995年 クロスバ交換機


1982年(当時18歳) デジタル交換機

これまでの機械式から半導体を使った電子式への移行期で大手通信メーカーの開発段階での製造ラインに関わりました。

この仕事を選んだのは求人募集で「目新しい仕事で業界最先端の仕事」とあったからです。

製造から始まりオフィスへの電話設備の設置、メンテナンス業務の日替わり業務に興味を持って携わっていました。

28の2 施工管理業務

30歳後半になり結婚をして家庭を持つことになりましたが、大手メーカーの孫請会社では子供を養う事が難しく上司と話し合って職を替える事になりました。

仕事を選ぶ基準は1・収入と2・興味あるものでした。仕事情報を探す中で「施工管理職」の募集を見かけ業務内容が「全国各地の現場管理」と興味を持つ内容で面接即採用になりました。


大手電機メーカーで官公庁向けに機器設置の現場管理業務を行いました。
現場管理は日本各地で仕事内容も道路情報設備、電力設備、下水処理の電気設備、太陽光発電と毎回発注者やシステムが変わり、これまた深夜までの慌ただしく刺激的な毎日を過ごしていました。
会社方針で取得した施工管理の国家資格がその後20年余り武器として通用しました。

現場管理の仕事の特徴として工事が終わるまで昼夜、土日関係無しですが残業代が半端なく付いて担当件名が終わると代休と有給で長期休める特徴がありました。

20代から行っていた障がい者ボランティアを定年後に本格的にやりたい思いがあり介護資格の初任者研修と実務者研修を自費で受講して、過去に縁があった障がい者施設でアルバイトをしていました。

28の3 介護職(障がい者・高齢者)

人生面白いもので老後の目標が職場トラブルをきっかけに50歳当初に実現することになりました。

職場では初任者研修受講の負担はありましたが、それ以上の資格は求められなかったので国家資格の介護福祉の受験費やセミナーを自費負担で行い運良く合格して1つの強みになりました。

28の4 まとめ

人生もその先の仕事に対する思いも年月が経つと変化する可能性があります。辛い出来事もありますが「興味があって楽しめる仕事を選ぶ」事が人生を豊かにするコツかも知れません。

約40年のサラリーマン人生で比較的多くの転職を通して嬉しい事や人生どん底の時もあったりして、仕事を通して出会った職場の人や関係者の方々の事を懐かしく思い出されました。

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