介護歴10年を迎えて想う、この道で良かったのか?!多分人生に無駄な事は無いと思う

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まえがき

最近noteのアクセスが激減したのはSNSに書くレベルの事をブログ投稿しているからと思う。  

noteアドバイスで今の投稿は個人の日記レベルなので「いいね」や「フォロワー」数を増やすには抜本的に投稿内容を変え無いといけないと言われwordpressやはてなブログなどで再スタートを試みたが失敗に終わりました。

この投稿も最初はXに投稿と思いましたが、文中にYoutubeや画像を入れる事が出来ないのでnote投稿にしました。

現時点のフォロワー数はFacebookは2420フォロワー(目標数2500)、Xは4840フォロワー(目標数5000)、noteは1960フォー(当初目標はなし:現在2000)で全体的に当初の目標数は達成しました。

投稿する以上は「いいね」は多いほど嬉しいし「フォロワー数」が増えればワクワクしますが人には分相応、足るるを知る事が大切と思っています。

本題

介護職の総括

介護業界に入ったのは今から10年前の2015年1月でした、そこから波乱万丈を経て今日に至りました。

介護業界に入ったのはそれまでに福祉に興味があったのと、50歳を前に現場管理で全国各地を転々として週末帰宅の勤務体制に疲れたと言うより、もういいかと感じた時期でした。

介護職になるのは60歳以降の定年後と思っていました。介護業界は人手不足で元気なら60でも65でも働けると思います。

人生計画の60歳開始から10年早めた事から10年間の経験と各種の福祉資格を取得出来たのは大きかったと思います。

60歳で1からやるのと10年の経験を持つのは大違いに思います。この10年は神の掌で動いていた感もあります。

建設業最後の出来事

2014年11月にそれまでの(準)官公庁の現場管理で全国を転々とする仕事から日帰りで出来る現場作業員(職人)の仕事に転身しました。

職人の世界は出入りの業者さんを通して厳しさは知っていました。早朝から深夜まで休みなしで職人特有の厳しさがある事を覚悟して臨みました。

自分はどうも弱いものイジメを許せないタイプみたいで自分への仕打ちは覚悟の上でしたが親しい人への仕打ちは許せないようでした。

職場に居る気の弱そうな人の職人の魂と言える工具鞄を砂浜に埋めたり、その人への不合理な要求には我慢出来ずに口出しした為にいじめの対象が私に回ってきました。

孤軍奮闘する気持ちはありましたが基本的に優しくしてもらったり手助けしてもらう職人さんに厳しく当たるのを見て申し訳なさから退社に至りました。

お天道様はお見通しの言葉がありますが、その後に所属していた営業所は閉所して本社と統合になりました。

いじめをしていた課長とその子分をよく思って居ない本社の上長の厳しい監視の元ではこれまでの悪さは出来なくなる思いました。

介護職に転職する下準備は出来ていた

自分のこれまでの性格から頭に血が昇ると後先考えずに退社する傾向がありました。

数ヶ月前に20年以上前に働いた障害者団体の施設長から訪問介護部門が開設されたのでどうかの電話がありました。休日にパートタイムで働いていて給与の折り合いが付けはフルタイムに移行出来る話しがあったところでした。

それまでの経歴を考えるあと10年、建設業者の現場管理職に戻る事も選択肢にありました。

介護のパートタイムの継続も可能だが、この時期の逃したらフルタイムの介護職になれるか分からないと思い、2015年1月から介護職を道を進み始めました。

5年間の勤務期間には大きな意味があった

奇跡的な入職した職場を2015年1月〜2019年12月の5年間で去ることになりました。

後から気づいのは介護経験は5年は各種介護資格や講習を受講するのに必要な年数でした。もし4年で退社したら不足分の1年は他の事業所の証明が必要になるので5年勤めたおかげで1社の証明書で済みました。

その職場の夜勤は利用者さんが寝ていたら一緒に寝てもいいルールでした。但し定期的なパット交換や喀痰吸引、決められ確認事項に支障が無い程度の睡眠(仮眠)になります。

自分では気づいて居ませんでしたが夜勤が体力的に厳しくなっていたのでしょうか?重度心身障害で発語が無い常時ベット生活の方の夜勤の時でした。

「自分はもういいから必要な人のところへ」の声(想い)が胸に浮かび、同時に1つの曲が浮かびました。その曲はサザンオールスターズの希望の轍でした。

希望の轍 / サザンオールスターズ (歌詞入り)
作詞 : 桑田佳祐作曲 : 桑田佳祐1990年9月1日 リリース映画 『稲村ジェーン』 サウンドトラック 2曲目に収録フリー動画 : Pixabay 様より 【歌詞】夢を乗せて 走る車道明日への旅通り過ぎる 街の色思い出の日々恋心なぜに切な...

不思議な出会いで次の職場が決まる?!

そろそろ次のステージかと思いつつ、それまでの転職と違って職場に不満はないし、敢えて転職活動をする気持ちもありませんでした。

ある日にいつも夜勤で通る道で児童デイサービスの看板が輝いて見えたので、ホームページで調べて興味を持ちました。児童デイサービスはパートタイム位の経験でしたのでどうかと思っていましたがチャレンジしました。

面接の申込みの電話からトントン拍子で進みました。通常は電話に出ない代表と話せて、面接日が即決まりました、面接日もいつもは居ない代表が在室していて入社が即決で決まりました。

入社は年明けの2020年1月でした。2年勤めると児童指導員の資格が得られるとの事で励みになりました。

その後に帰社の時に不可解な事に気づきました。そこの職場は看板には照明を点けていないし周りは薄暗くて何度か前を通り過ぎた事がありました。輝く看板が転職につながったのは不思議な縁でした。

入職後トラブルが続発して、ついには

入社後の送迎時に敷地内や対向車両との軽い接触事故が続発しました。それまで5年間ほぼ運転しなかったとは言え何かの力が働いている感じもありました。

そして入社10ヶ月目にある出来事から数週間後の月末に退職勧告があり、転職活動が間に合わずに11月は無職になりました。

これまでは心の底に何故その時期に思って居ましたが、順風満帆に進んでいたら児童指導員の資格を取得して子供たちのお世話で一生を終えていたかと思いますが自分の着地地点はそこでは無かったようです。

それまで順調だった介護職に陰りが

突然の退職で無職になり焦りからそれまで拒否していた高齢者の小規模多機能施設に勤務を承諾しましたが、そこでは強いストレスが続きました。

約半年にそのを離職しましたが、その間に厳しい指導で高齢介護を促成栽培されたのではと後から思えました。

そこまでしなければ自分からは高齢者介護に関わる事は無かったので神の見えざる手が障害者だけで無く「児童」「高齢者」の支援も可能にしたかったのかも知れません。

この辛い環境は今の修業が終わるまでの続くかと覚悟しつつ刹那的になっていました。ある日に転職フェアで4店以上回ると金券カードがもらえるのに惹かれて転職は諦めていましたが行ってきました。

良きせぬ求人の連絡がありました

NPO法人で児童、高齢者、障害者と総合的に運営されている事業所からスカウトを受けて2021年4月高齢者施設から卒業しました。

2度目の予期せぬ離職が起きした

それまで苦手だった高齢者介護も鍛えられた事で苦手意識は無くなり、日によって児童デイサービスや高齢者施設の勤務をしつつ、朝夕に障害者の行動援護をする変化に富み自分の性格にビッタリの仕事に巡り会えて生涯の職場と思いました。

今思えば職場環境(スタッフの想い)が清浄ではなかったかも

それは利用者が行動援護中に暴れて無数の引っ掻き傷を負って帰社しても何の労いの言葉もなくスルーされたことからでした。

強度行動障害者の支援ではアルアルで特段変わった事ではないで、業務の一環と思いつつ何処の職場でも一言二言あり、それを求めては居ませんでしたが何の言葉もない事に少しムッとして通院の話しを出しました。

しつこい様ですがこれまでは眼鏡等を壊されたら実費弁償はありましたが、怪我に感しては周囲から話しがあっても自分から言い出した事はありませんでした。

通院を勧めるでは無く許可が出た感じでした。治療は本来は労災扱いで会社負担ですが、通常治療で治療費が出されました。

これは建設業なら労災隠しに該当して罰則が発生しますがNPO法人ならこんなものかと思っていました。

ある日に就労支援施設の管理者とサビ管の2人が退職したとの事でこの施設(部署)での勤務を打診されて了解しました。

退職した理由は2人はNPOの方針に合わないからと聞きましたが、暫く2人と新管理者の3人で仕事をしていましたが、業務上ではこれと言った問題も見当たらず疑問符でした。

その後は私自身もNPO法人の理念合わないからと半年後の更新時にあと3ヶ月更新してそこまでと宣告を受けました。

NPO法人の理念を聞いたり学んだ事もなければホームページを見ても在り来りの文句で先に離職したお二人を含めてNPO法人の理念が何たるかは分からず終いでした。  

次の職場は直ぐに決まりました。

2021年10月から3ヶ月の更新=在籍が決っていましたが、NPO法人の理念が何たるかは分からずにそれに合わないと烙印が押された状態では双方に良くないと思い次なる介護仕事を探しました。

自宅から近い高齢者介護の会社でしたが、それまでの厳しい高齢者介護で抵抗は無く心機一転に良いかと思い、それまでの退職理由となった事の反省点を面接時に伝えましたが、理解されたのか採用が決まりました。

高齢者デイサービスの部署で半年勤めた後に部署移動で老人ホームで勤務して半年を過ぎようとした時に不満はないもの、弟が脳腫瘍の手術が原因で亡くなったことが心に引っ掛ていました。

重度訪問介護の仕事に

急成長した重度訪問介護の代表の講演と理念を聴いて共感を覚えたものの、転職まで踏み切れないまま日時が過ぎていました。

同僚から「一度退職して再就職でここに戻ってきたので、役員から厳しく当たられるけどここがいい」の話しが心から離れませんでした。

自分はと問えば高齢者介護の仕事でいいのかと言えば、先に共感を受けた代表の会社で働きたいの想いも浮かび牛歩の如く会社説明会→zoom面談に進み入職に至りました。

入社後の訪問先は病院を退院して介護者を探していた利用さんとタイミングが合って重度訪問介護の契約が交わされました。

後から聞くと両親と同居で利用者で昼夜の介護を希望でしたが夜勤ヘルパーは確保出来たものの日中のヘルパーが見つからなかったので私の入社はベストなタイミングと聞いて人の不思議な巡り合い(縁)を感じました。

ここからは私の妄想の話しですが、発語が無い重度知的障害と重度身体障害を併用している彼らはテレパシーでやりとりをしていて、近い将来も見えている。

だから私が2019年12月に退職して各種の試練を通って3年後の2022年11月に退院した彼に巡り合えたように感じました。

途中に何度か分岐点かあり選択肢を1つでも違えば辿り付けなかったので、そこに天の後押しがあったそんな風に感じています。

そんな彼とよく聴いていた曲です。

あいみょんのベストソング メドレー 2022 - 邦楽 ランキング 最新 2022 - マリーゴールド, 裸の心, ハルノヒ, 愛を伝えたいだとか, 今夜このまま, 桜が降る夜は, 空の青さを知る人よ
#japanesemusic

次なるステージへの移行の時期は続くのか?!

幸運な事に2年間は1人の方に専属で重度訪問介護が毎日続けられました、それはひとえに言って日中のヘルパーの人手不足からでしたが本来なら日替わりでもおかしくありませんでした。

60歳を前に今の環境は自分に合っていて、良いけど将来を思えば最低もう一人ヘルパーが欲しいと要望をご家族と共に出すも人が見つからない状態でした。

そんなある日に社内公募で「強度行動障害者の施設勤務」希望者を募集を知りました。一度目にしてその後は募集の案内は見なくなったので人事に打診をするの募集中との事でした。

異動要望を出したのは2024年6月末でした、只現在の職場は人手不足で上役がどう考えるかは分かりませんでした。人事と話しを進めて8月始めに新旧の職場の上長を交えて正式な社内異動の話しがありました。

利用者のお母さんにそれとなく話しをしていたので、毎日の支援から自宅で世話したいの思いとは不本意ながらデイサービスを日数を増やして訪問の日数が減るように配慮を頂きました。

人員調整を行いながら進めて12月から不定期で異動先への勤務が始まりました。それまでの毎日支援から週2の支援に変わって暫くこの状態が続くと思っていました。

2025年3月始めに突如4月から新職場に完全に異動する事を聞きました。次のヘルパーは誰かと思っていると人が居ないので契約打ち切りと思いもしない方向に話しが進んで、利用者のお母さん共に動揺が隠しきれませんでした。

本当なら私が責められても仕方ないのですが、長年ありがとうの言葉を頂きました。何とか次の支援者が見つから無いかと、試行錯誤する日々の中で相談員から新しく開設した事業所からの支援が受けられる事を聞き安堵しました。

2名のヘルパーさんで異動前の3月に数回の同行研修がありましたので、それまでに学んだ事やノウハウを文章や言葉でお伝えしてバトンタッチしました。その方々が慣れてきたと思える3月末に最後を支援をしてお別れしました。

今(2025年12月)の職場に週数回の勤務開始から1年になりました。ここも1年勤めて色々ありましたが強度行動障害者が不穏で暴れたら職員が最低1人取り押さえて周囲の利用者の安全確保にもう1人必要になります。

重度訪問介護は常に職員1対利用者1で施設は通常は職員1対利用者が多ですが不穏時には人数が逆転します。

ヘルパー1人では重度訪問介護と同じ1人の利用者しか受け入れられない。そんな課題を持ちつつ待ち受ける利用者の受け入れ拡大に向けて次に何が出来るかを模索しています。

次のステージが始まる予感もありますが今の環境で出来る事を精一杯する事に次につながると、これまでの経験で学んだのでそれを実践したいと思っています。

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